Recent Activities by Kazuyuki Hara
Nous nous proposons dans cette communication de mettre en relief un aspect de la pensée lacanienn... more Nous nous proposons dans cette communication de mettre en relief un aspect de la pensée lacanienne comme pensée de délimitation. D’abord il s’agissait pour Lacan de réarticuler la frontière tracée d’ordinaire entre la raison et la folie, ce qui l’a amené ensuite à la redéfinition de l’espace où se déroule la psychanalyse en termes du langage, où la distinction de deux niveaux de l’ouïe lui a permis de découvrir le lieu où se situe un véritable dehors du langage. Ce dehors du langage, repéré d’abord à l’ordre du désir et du fantasme, et reconfiguré ensuite autour de la notion de l’objet a, si Lacan a tenté de l’articuler d’abord à l’aide du cercle d’Euler, finit par apparaître sous une autre lumière, lorsqu’il est intégré dans le contexte théorique du dernier Lacan, que caractérisent la mise en valeur de l’écriture, le recours aux nœuds et enfin la référence à la littérature joycienne. Nous arguons finalement que l’innovation essentielle réalisée par la pensée lacanienne consiste à avoir foncièrement remis en cause les délimitations traditionnelles que présupposaient les sciences de l’homme pour en proposer une toute autre, en renouvelant la conception du lieu où elle intervient, en référence au langage sous tous ses aspects possibles.
Jacques Lacan's article "The Signification of the Phallus," must-read reference in discussions of... more Jacques Lacan's article "The Signification of the Phallus," must-read reference in discussions of gender/sexuality in psychoanalysis, was written while he was trying to reread the Freudian Oedipus complex as "dialectic of desire" in the 1950s, in his seminar on the object relations and the formations of the unconscious. The article and the seminar had many ideas and references in common, but there seems to be one major divergence: In the article, having the phallus and being the phallus are generally understood to be assigned respectively to man and woman, whereas in the seminar, Lacan affirmed that “the dialectic of being and having also applies to them both” and thus clearly recused the idea of representing the sexual difference by the opposition of these two possible relations to the phallus. Restituting this latter, apparently abandoned conception of sexual difference in Lacan, in its original context of discussions in his seminar, with a particular focus on the notion of “imaginary phallus”, allowed us to articulate in a more coherent manner “the dialectic of desire” for the boy, as well as to conceive in the same conceptual framework its another “track”, which fits well with the clinical observations reported by Melanie Klein as the Oedipus complex of the girl. This idea of what we call “generalized dialectic of desire”, turning out to coincide surprisingly with the formulae of sexuation Lacan elaborated in the 1970s, entails not only the possibility of defining the functions of maternal and paternal Others independently of their gender, but also that of multiple object choice assigned to each of gender identities, and to this extent inevitably problematizes the position of two objectal elements in this scheme, “a “ on the feminine side and “Φ” on the masculine side. For what reason cannot it be otherwise? Is there any possibility of locating them in another place, or of conceiving another organization of the places for them? Or more radically, do we mean the same thing when we say “sexual difference” about identity and about object? We propose to discuss these questions in this presentation.
10月2日(日)の13時から17時まで、ハイブリッド形式で行われる小寺精神分析研究財団の「学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』」の第7回「21世紀のエディプス―われわれはまだこの... more 10月2日(日)の13時から17時まで、ハイブリッド形式で行われる小寺精神分析研究財団の「学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』」の第7回「21世紀のエディプス―われわれはまだこの概念を必要とするのか?―」における発表。
20世紀フランスの精神分析家ジャック・ラカンによる精神分析の再定義の試みは、その定義を基礎づけるより一般的な二つの概念、「こころ」と「ことば」の根元的な問い直しと共に進められてゆきました。この... more 20世紀フランスの精神分析家ジャック・ラカンによる精神分析の再定義の試みは、その定義を基礎づけるより一般的な二つの概念、「こころ」と「ことば」の根元的な問い直しと共に進められてゆきました。このうち「こころ」の問い直しをとり上げた第1回に続き、第2回となる今回は、ラカンが「ことば」をどのように異なった仕方で考えようとしたかを見てゆきます。
1950年代のフランスで、精神分析の新しい姿を提示すべき立場に置かれたラカンが、精神分析という営みの基礎をなすものとして注目したのが「言語」の次元でした。治療の中で言葉が持つ力については、精神分析の創始者であるフロイトがすでに繰り返し指摘していますが、それが主題化されるのがフロイト以後のこの時期になったのはなぜなのか。その理由の一つと考えられるのが、フロイトとラカンの間に登場した「一般言語学」です。フェルディナン・ド・ソシュールによって創始されたこの分野は、フロイトの議論を制約していたのとは異なった、言語を語るための新たな枠組みを提案するものであり、なかでもその議論の中で提示された「意味」に関する独自の観点は、「こころ」と「ことば」を外的に影響し合う二つの存在としてではなく、互いに結びついて同じ一つの構造をなすものとして見る見方を可能にするものでした。
以上のような観点から、本セミナーではラカンの思想形成の過程で展開された言語をめぐる議論のうち、中期に集中的に論じられた「シニフィアン連鎖」と「欲望のグラフ」という二つの概念装置をとり上げ、それが言語学や哲学、数学などへの学際的な参照の中でどのように練り上げられていったかを概観した上で、それがそもそも人がなにかを「聴く」とはどういうことかという根本的な問いへの答えとして考案された抽象的な機械、「ラカン・マシン」と呼ぶべきものではないかという見方を提示し、これを糸口としてラカンの「言語」観について議論したいと思います。
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2022年9月30日 17時30分より オンラインにて
要事前登録です。東京大学ヒューマニティーズセンターのサイト
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/
または下記リンクからご登録ください。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZEqd-uurjsvG9SPzSzx8UoCaz9sHojTgnIz
精神分析家ジャック・ラカンは、第二次世界大戦後のフランスにおいて精神分析をその基礎から問い直すなかで、言語学、哲学、文学等さまざまな学問分野を参照しつつ新たな理論を提唱し、20世紀の人文思想に広... more 精神分析家ジャック・ラカンは、第二次世界大戦後のフランスにおいて精神分析をその基礎から問い直すなかで、言語学、哲学、文学等さまざまな学問分野を参照しつつ新たな理論を提唱し、20世紀の人文思想に広い範囲で影響を与えました。精神分析が「こころ」を対象とし、これを「ことば」によって治療しようとする営みである限りにおいて、その問い直しのためには「こころ」と「ことば」のそれぞれを、あるいはそれら相互の関係を、従来とは異なった仕方で捉えるということが必要となっていました。
二回を予定している講演のうち初回の今回は、彼による「こころ」の再規定が、どのように「人間」を捉える捉え方に変更を迫ったかという点を考えてみたいと思います。ラカンは必ずしも「人間」を主題的に論じる思想家ではありません。彼の議論の中では「人間」よりもむしろ「主体」が問題にされるわけですが、こうした議論の焦点の移動を引き起こすに至った彼の思想形成の過程を見てゆくと、そこにはある一定の仕方で捉えられていた「人間」を根底から問い直すという契機があり、それが後期に現れる特異な「人間」概念──「人間(l'homme)」ならぬ「ニンゲン(LOM)」──にまで反響しているように思われます。
本セミナーでは、このうちラカンの思想形成の初期から中期、「こころ」の科学の認識論的基礎づけから「他者の欲望の欲望」の問題に、さらには「欲望の弁証法」に至る展開についての報告を糸口としつつ、彼の思想を出発点とした「人間」の多様なあり方の理論的包摂の可能性について考察します。
登録は以下からお進みください。4/13〆切です。
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/open-seminar/2022/62-lacan-on-humanbeing/
『思想』(岩波書店), Jun 2022
(論文冒頭より抜粋)
賭の断章において「私」が説得しようとしている「自由思想家(リベルタン)」は、ある仕方で「欲望(d)」の水準に自らを位置づけている。というのも彼の主体性のあり方は、他者への... more (論文冒頭より抜粋)
賭の断章において「私」が説得しようとしている「自由思想家(リベルタン)」は、ある仕方で「欲望(d)」の水準に自らを位置づけている。というのも彼の主体性のあり方は、他者への関係の要となるはずの「他者の欲望」から遠ざかることによって規定されているからだ。より正確には、この遠ざかりは神的〈他者〉からの遠ざかりという形をとる。この神的〈他者〉は、ある種の「意志」を持ち、恩寵(la Grâce)を司り救済を施す限りでのキリスト教の神、「祈り」のなかで「あなたの意志がなされますように(Que ta volonté soit faite.)」と呼びかけられ 、その限りで欲望を想定されているような者であると同時に、造物主としてこの世界を造り、欲望を備えた私の同類たる他者をも実在に至らしめたはずの者としての神でもある。そうした神を問いに付すということは、欲望する他者の根拠を問いに付すということに他ならない。
こうして「自由思想家(リベルタン)」は、「他者が欲望するということを欲望しない」主体のありようの一つを構成している。とはいえ彼の「欲望しない」は、未だ主体性の瓦解を伴わない。その限りにおいて「自由思想家(リベルタン)」は、「欲望(d)」の道に踏み込みつつも、その途上で立ち止まった主体であるということができる。これはある意味で、「自由思想家(リベルタン)」というあり方を、欲望する限りにおける人間全てに一般化する主張だが、こうした一般化に関してはすでにゴルドマンの先例があったことをあらためて指摘しておこう。彼は先述の1954年の発表のなかで、賭の断章は「自由思想家(リベルタン)」に向けて書かれたものではなく、「自らの条件を意識するにいたったあらゆる人間に向けて――そして暗にパスカル自身に向けても――書かれている」と述べていた 。
さて、こうした「自由思想家(リベルタン)」において先鋭的に現れる主体性を、あるいは主体の「自由思想家(リベルタン)」的なポジションを、われわれはどのように考えるべきだろうか。17世紀を生きたパスカル自身の思い描くその姿がどのようなものであったのであれ、ラカンがこの呼称をサドおよび彼の作中人物に結びつけなかったと考えるのは難しい。ラカンにとって賭の断章で展開される対話は、或る意味でパスカルとサドの対話であったといってもよいだろう。ただし歴史的に見たとき、「自由思想家(リベルタン)」の理論的側面と実践的側面のうち後者が単なる放蕩を超える極限化を被った姿で現れるのには、18世紀以降、サドの作品群を待たなくてはならない。ラカンの読解はしたがって、この二つの「自由思想家(リベルタン)」像――「ピュロン派の人」ないし「懐疑主義者」 と「快楽人( l’homme du plaisir)」 ――の間の圧縮を敢えてしているのであって、彼の読解の射程を評価するためにはこの圧縮の内実を問うことが必要になってくる。〔…〕
『思想』(岩波書店), Jul 2022
(論文冒頭より抜粋)
5.「乗船すること(embarquement)」をめぐって:ラカンによるパスカル(1969年)
ラカンの観点から言うなら、〈他者〉を前提として展開されるエディプス... more (論文冒頭より抜粋)
5.「乗船すること(embarquement)」をめぐって:ラカンによるパスカル(1969年)
ラカンの観点から言うなら、〈他者〉を前提として展開されるエディプス的弁証法は避けがたくそのもたらす象徴的な解決の脆弱性という悲劇に逢着する。そこでは主体に対して〈他者〉の二重の領野との関わりで自らの位置を定め直すという場所の問題、トポロジーの問題が提起されるのだが、この問題は「パスカルの賭」の枠組みにおいては、主体が〈他者〉との関わりにおける自らの位置を「強いられた」ものと感じるという仕方で触知可能となる。別の言い方で言えば、これは象徴的なものを創設する行為が、象徴的なものそれ自体によって回収されるかのように論ずる議論の胡乱といってもよい。そうした回収を主張する言語は、あくまで象徴的なものの圏域に属しつつも、自身がその外に及ぶ射程を持つことを主張しているわけだが、こうした誤った、とは言わないまでも、少なくとも混乱した主張がでてくる背景にある、言語のもう一つの有り様についての問いが、爾後ラカンの議論の主要なトポスの一つとして浮上してくることになる。この観点が「パスカルの賭」についてのラカンの議論をどのように深化させていったのかを、最後にみてゆくことにしよう。(以下続く)
Papers by Kazuyuki Hara
Routledge eBooks, Nov 7, 2019
La pensee de Jacques Lacan s'inscrit dans l'histoire de la philosophie, par son approche ... more La pensee de Jacques Lacan s'inscrit dans l'histoire de la philosophie, par son approche critique de l'objet proprement psychique, qui instaure une problematique, au centre de laquelle se situe des l'origine l'identification, en tant que la notion constitue le lieu privilegie de l'interrogation sur l'acces que nous croyons avoir a l'autre et a son vouloir. Probleme traversant tout notre etre, mais couvert sans cesse par une conception « logico-grammaticale » du langage, ou l'on a l'habitude de reconnaitre le sens ou le vouloir-dire comme une « evidence » : cette intrusion du voir dans le dire a un niveau determine est caracteristique du discours theorique. Pour depasser la limite qu'il nous impose, Lacan choisit de le porter a la limite inspire par la notion benvenistienne de signification et de l'unite linguistique, il propose le concept de chaine signifiante, comme une conception non-logique du langage, ou l'un n'est pas donne d'avance mais ne s'articule sur le fond de l'ambiguite semantique, que par rapport a un vouloir determine et en tant qu'il est ouvert a l'enchainement au niveau superieur. Elaboree a travers la lecture des textes, litteraire philosophique ou psychotique, et soumise a l'effort constant de la formalisation, la chaine signifiante definit un topos propre au langage, ou la question de l'autre se pose non pas en termes de transmission mais d'evenement : modification qui touche avant tout le complexe d'Œdipe, dont la dialectique est entierement suspendue a la question de l'autre vouloir et de son insistance. Puisque ce topos-logique est souvent confondu avec l'espace, essentiellement ob-jectal, la topo-logie, ce logos ou s'inscrit notre vouloir, doit etre soutenu" par la topologie au sens de pensee sur le topos, qu'elle s'oriente vers la reprise du schema optique ou vers les references a la topologie proprement dite, ou Lacan trouvera une reponse a l'enigme de l'insistance sous la forme de nœud borromeen.
Etudes de langue et litterature francaises, 2000
Concentric:Literary and Cultural Studies, 2009
In this paper, I would like to propose a kind of parallel reading of Lacan and Derrida, not in or... more In this paper, I would like to propose a kind of parallel reading of Lacan and Derrida, not in order to confront them with each other and to decide in favor of one of them, but in order to shed light on a certain conceptual configuration or topography that they seem to share. In the first half of the paper I focus on the notion of neighbor, proposed by Lacan in his seminar The Ethics of Psychoanalysis. I show how he elaborated this notion with multiple references to Freud and to various literary works, and in relation to the positing and removal of a dividing line relative to love. In the second half of the paper I try to demonstrate that the notion of friend occupies a homologous position in the conceptual framework of Derrida's Politics of Friendship, at the center of which we find an in-depth analysis of that distinction between friend and enemy which marks the works of Carl Schmitt. Nevertheless, this homology does not spell identity. I suggest in the conclusion that the div...
『I.R.S.――ジャック・ラカン研究』, Oct 2009
『思想』(岩波書店), Jun 2010
原和之,「精神分析」を待ちながら―ジャック・ラカンにおける欲望の「公準」,『思想』,第1034号,岩波書店,2010年6月,pp. 101-121.
アウリオン叢書20『身体と身体―パフォーマンス・批評・精神分析』, 2021
1.ボロメオの環と「サントーム」(Borromean Knots and the "Sinthome")
2.ジョイスの「エゴ」としての「スティーヴン・デダラス」(Stephen Dedalu... more 1.ボロメオの環と「サントーム」(Borromean Knots and the "Sinthome")
2.ジョイスの「エゴ」としての「スティーヴン・デダラス」(Stephen Dedalus as the "Ego" of Joyce)
3.「根深いエゴイズム」から「補正エゴ」へ(From the "Ineradicable egoism" to the "Rectifying Ego")
4.「告解」の奇計から堕落への「信仰告白」へ(From the Ruse of the "Confession" to the "Confession of Faith" in the Lapse )
5.「名前」から「命名」へ(From Name to Nomination)
This paper, starting from Lacan's own remark that Stephen Dedalus is the ego or "the safety imaginary" of James Joyce, aims to show how the Lacanian concept of the "rectifying ego" as well as its illustration by borromean knots springs from this protagonist in A Portrait of the Artist as A Young man, to argue that being an artist implies for Joyce staying on the verge of the symbolic diversely organized and that it is the writing of Sephen Dedalus as a "rectifying ego" or a kind of "sinthome" that allowed Joyce to calibrate his positioning at this otherwise unstable point.
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Recent Activities by Kazuyuki Hara
1950年代のフランスで、精神分析の新しい姿を提示すべき立場に置かれたラカンが、精神分析という営みの基礎をなすものとして注目したのが「言語」の次元でした。治療の中で言葉が持つ力については、精神分析の創始者であるフロイトがすでに繰り返し指摘していますが、それが主題化されるのがフロイト以後のこの時期になったのはなぜなのか。その理由の一つと考えられるのが、フロイトとラカンの間に登場した「一般言語学」です。フェルディナン・ド・ソシュールによって創始されたこの分野は、フロイトの議論を制約していたのとは異なった、言語を語るための新たな枠組みを提案するものであり、なかでもその議論の中で提示された「意味」に関する独自の観点は、「こころ」と「ことば」を外的に影響し合う二つの存在としてではなく、互いに結びついて同じ一つの構造をなすものとして見る見方を可能にするものでした。
以上のような観点から、本セミナーではラカンの思想形成の過程で展開された言語をめぐる議論のうち、中期に集中的に論じられた「シニフィアン連鎖」と「欲望のグラフ」という二つの概念装置をとり上げ、それが言語学や哲学、数学などへの学際的な参照の中でどのように練り上げられていったかを概観した上で、それがそもそも人がなにかを「聴く」とはどういうことかという根本的な問いへの答えとして考案された抽象的な機械、「ラカン・マシン」と呼ぶべきものではないかという見方を提示し、これを糸口としてラカンの「言語」観について議論したいと思います。
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2022年9月30日 17時30分より オンラインにて
要事前登録です。東京大学ヒューマニティーズセンターのサイト
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/
または下記リンクからご登録ください。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZEqd-uurjsvG9SPzSzx8UoCaz9sHojTgnIz
二回を予定している講演のうち初回の今回は、彼による「こころ」の再規定が、どのように「人間」を捉える捉え方に変更を迫ったかという点を考えてみたいと思います。ラカンは必ずしも「人間」を主題的に論じる思想家ではありません。彼の議論の中では「人間」よりもむしろ「主体」が問題にされるわけですが、こうした議論の焦点の移動を引き起こすに至った彼の思想形成の過程を見てゆくと、そこにはある一定の仕方で捉えられていた「人間」を根底から問い直すという契機があり、それが後期に現れる特異な「人間」概念──「人間(l'homme)」ならぬ「ニンゲン(LOM)」──にまで反響しているように思われます。
本セミナーでは、このうちラカンの思想形成の初期から中期、「こころ」の科学の認識論的基礎づけから「他者の欲望の欲望」の問題に、さらには「欲望の弁証法」に至る展開についての報告を糸口としつつ、彼の思想を出発点とした「人間」の多様なあり方の理論的包摂の可能性について考察します。
登録は以下からお進みください。4/13〆切です。
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/open-seminar/2022/62-lacan-on-humanbeing/
1.思想史における「影響」の問題
2.悲劇と弁証法:「隠れたる神」と〈他者〉のあいだ
3.「欲望(d)」と幻想(ファンタスム)の観点から見た「パスカルの賭」
4.「強いられた」賭の「トポロジー」:ラカンによる「パスカルの賭」(1966年)
5.「乗船すること(embarquement)」をめぐって:ラカンによるパスカル(1969年)
なお文中で参照した拙論は以下より確認可能である。
原和之,「精神分析を待ちながら」
https://www.academia.edu/72725648/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90%E3%82%92%E5%BE%85%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89_%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AC%B2%E6%9C%9B%E3%81%AE_%E5%85%AC%E6%BA%96_Waiting_for_Psychoanalysis_Jacques_Lacan_on_the_Postulate_of_Desire_
原和之,「ラカンのクロノ=トポ=ロジー」
https://www.academia.edu/11566938/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8E_%E3%83%88%E3%83%9D_%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC_Lacans_C_h_rono_topo_logy_
原和之,「枠の効果」
https://www.academia.edu/7133485/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E6%9E%A0_%E3%81%AE%E5%8A%B9%E6%9E%9C_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B1960%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A6%96%E8%A6%9A%E8%A3%85%E7%BD%AE_The_Frame_Effect_Lacans_Optical_Models_in_1960s_
Kazuyuki, HARA, "La tragédie comme l'au-delà de l'OEdipe"
https://www.academia.edu/4092481/Collection_UTCP9_Hara_08_Le_tragique_comme_l_au_del%C3%A0_de_l_OEdipe_Autour_de_la_Trilogie_de_Co%C3%BBfontaine
賭の断章において「私」が説得しようとしている「自由思想家(リベルタン)」は、ある仕方で「欲望(d)」の水準に自らを位置づけている。というのも彼の主体性のあり方は、他者への関係の要となるはずの「他者の欲望」から遠ざかることによって規定されているからだ。より正確には、この遠ざかりは神的〈他者〉からの遠ざかりという形をとる。この神的〈他者〉は、ある種の「意志」を持ち、恩寵(la Grâce)を司り救済を施す限りでのキリスト教の神、「祈り」のなかで「あなたの意志がなされますように(Que ta volonté soit faite.)」と呼びかけられ 、その限りで欲望を想定されているような者であると同時に、造物主としてこの世界を造り、欲望を備えた私の同類たる他者をも実在に至らしめたはずの者としての神でもある。そうした神を問いに付すということは、欲望する他者の根拠を問いに付すということに他ならない。
こうして「自由思想家(リベルタン)」は、「他者が欲望するということを欲望しない」主体のありようの一つを構成している。とはいえ彼の「欲望しない」は、未だ主体性の瓦解を伴わない。その限りにおいて「自由思想家(リベルタン)」は、「欲望(d)」の道に踏み込みつつも、その途上で立ち止まった主体であるということができる。これはある意味で、「自由思想家(リベルタン)」というあり方を、欲望する限りにおける人間全てに一般化する主張だが、こうした一般化に関してはすでにゴルドマンの先例があったことをあらためて指摘しておこう。彼は先述の1954年の発表のなかで、賭の断章は「自由思想家(リベルタン)」に向けて書かれたものではなく、「自らの条件を意識するにいたったあらゆる人間に向けて――そして暗にパスカル自身に向けても――書かれている」と述べていた 。
さて、こうした「自由思想家(リベルタン)」において先鋭的に現れる主体性を、あるいは主体の「自由思想家(リベルタン)」的なポジションを、われわれはどのように考えるべきだろうか。17世紀を生きたパスカル自身の思い描くその姿がどのようなものであったのであれ、ラカンがこの呼称をサドおよび彼の作中人物に結びつけなかったと考えるのは難しい。ラカンにとって賭の断章で展開される対話は、或る意味でパスカルとサドの対話であったといってもよいだろう。ただし歴史的に見たとき、「自由思想家(リベルタン)」の理論的側面と実践的側面のうち後者が単なる放蕩を超える極限化を被った姿で現れるのには、18世紀以降、サドの作品群を待たなくてはならない。ラカンの読解はしたがって、この二つの「自由思想家(リベルタン)」像――「ピュロン派の人」ないし「懐疑主義者」 と「快楽人( l’homme du plaisir)」 ――の間の圧縮を敢えてしているのであって、彼の読解の射程を評価するためにはこの圧縮の内実を問うことが必要になってくる。〔…〕
5.「乗船すること(embarquement)」をめぐって:ラカンによるパスカル(1969年)
ラカンの観点から言うなら、〈他者〉を前提として展開されるエディプス的弁証法は避けがたくそのもたらす象徴的な解決の脆弱性という悲劇に逢着する。そこでは主体に対して〈他者〉の二重の領野との関わりで自らの位置を定め直すという場所の問題、トポロジーの問題が提起されるのだが、この問題は「パスカルの賭」の枠組みにおいては、主体が〈他者〉との関わりにおける自らの位置を「強いられた」ものと感じるという仕方で触知可能となる。別の言い方で言えば、これは象徴的なものを創設する行為が、象徴的なものそれ自体によって回収されるかのように論ずる議論の胡乱といってもよい。そうした回収を主張する言語は、あくまで象徴的なものの圏域に属しつつも、自身がその外に及ぶ射程を持つことを主張しているわけだが、こうした誤った、とは言わないまでも、少なくとも混乱した主張がでてくる背景にある、言語のもう一つの有り様についての問いが、爾後ラカンの議論の主要なトポスの一つとして浮上してくることになる。この観点が「パスカルの賭」についてのラカンの議論をどのように深化させていったのかを、最後にみてゆくことにしよう。(以下続く)
Papers by Kazuyuki Hara
2.ジョイスの「エゴ」としての「スティーヴン・デダラス」(Stephen Dedalus as the "Ego" of Joyce)
3.「根深いエゴイズム」から「補正エゴ」へ(From the "Ineradicable egoism" to the "Rectifying Ego")
4.「告解」の奇計から堕落への「信仰告白」へ(From the Ruse of the "Confession" to the "Confession of Faith" in the Lapse )
5.「名前」から「命名」へ(From Name to Nomination)
This paper, starting from Lacan's own remark that Stephen Dedalus is the ego or "the safety imaginary" of James Joyce, aims to show how the Lacanian concept of the "rectifying ego" as well as its illustration by borromean knots springs from this protagonist in A Portrait of the Artist as A Young man, to argue that being an artist implies for Joyce staying on the verge of the symbolic diversely organized and that it is the writing of Sephen Dedalus as a "rectifying ego" or a kind of "sinthome" that allowed Joyce to calibrate his positioning at this otherwise unstable point.
1950年代のフランスで、精神分析の新しい姿を提示すべき立場に置かれたラカンが、精神分析という営みの基礎をなすものとして注目したのが「言語」の次元でした。治療の中で言葉が持つ力については、精神分析の創始者であるフロイトがすでに繰り返し指摘していますが、それが主題化されるのがフロイト以後のこの時期になったのはなぜなのか。その理由の一つと考えられるのが、フロイトとラカンの間に登場した「一般言語学」です。フェルディナン・ド・ソシュールによって創始されたこの分野は、フロイトの議論を制約していたのとは異なった、言語を語るための新たな枠組みを提案するものであり、なかでもその議論の中で提示された「意味」に関する独自の観点は、「こころ」と「ことば」を外的に影響し合う二つの存在としてではなく、互いに結びついて同じ一つの構造をなすものとして見る見方を可能にするものでした。
以上のような観点から、本セミナーではラカンの思想形成の過程で展開された言語をめぐる議論のうち、中期に集中的に論じられた「シニフィアン連鎖」と「欲望のグラフ」という二つの概念装置をとり上げ、それが言語学や哲学、数学などへの学際的な参照の中でどのように練り上げられていったかを概観した上で、それがそもそも人がなにかを「聴く」とはどういうことかという根本的な問いへの答えとして考案された抽象的な機械、「ラカン・マシン」と呼ぶべきものではないかという見方を提示し、これを糸口としてラカンの「言語」観について議論したいと思います。
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2022年9月30日 17時30分より オンラインにて
要事前登録です。東京大学ヒューマニティーズセンターのサイト
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/
または下記リンクからご登録ください。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZEqd-uurjsvG9SPzSzx8UoCaz9sHojTgnIz
二回を予定している講演のうち初回の今回は、彼による「こころ」の再規定が、どのように「人間」を捉える捉え方に変更を迫ったかという点を考えてみたいと思います。ラカンは必ずしも「人間」を主題的に論じる思想家ではありません。彼の議論の中では「人間」よりもむしろ「主体」が問題にされるわけですが、こうした議論の焦点の移動を引き起こすに至った彼の思想形成の過程を見てゆくと、そこにはある一定の仕方で捉えられていた「人間」を根底から問い直すという契機があり、それが後期に現れる特異な「人間」概念──「人間(l'homme)」ならぬ「ニンゲン(LOM)」──にまで反響しているように思われます。
本セミナーでは、このうちラカンの思想形成の初期から中期、「こころ」の科学の認識論的基礎づけから「他者の欲望の欲望」の問題に、さらには「欲望の弁証法」に至る展開についての報告を糸口としつつ、彼の思想を出発点とした「人間」の多様なあり方の理論的包摂の可能性について考察します。
登録は以下からお進みください。4/13〆切です。
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/open-seminar/2022/62-lacan-on-humanbeing/
1.思想史における「影響」の問題
2.悲劇と弁証法:「隠れたる神」と〈他者〉のあいだ
3.「欲望(d)」と幻想(ファンタスム)の観点から見た「パスカルの賭」
4.「強いられた」賭の「トポロジー」:ラカンによる「パスカルの賭」(1966年)
5.「乗船すること(embarquement)」をめぐって:ラカンによるパスカル(1969年)
なお文中で参照した拙論は以下より確認可能である。
原和之,「精神分析を待ちながら」
https://www.academia.edu/72725648/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90%E3%82%92%E5%BE%85%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89_%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AC%B2%E6%9C%9B%E3%81%AE_%E5%85%AC%E6%BA%96_Waiting_for_Psychoanalysis_Jacques_Lacan_on_the_Postulate_of_Desire_
原和之,「ラカンのクロノ=トポ=ロジー」
https://www.academia.edu/11566938/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8E_%E3%83%88%E3%83%9D_%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC_Lacans_C_h_rono_topo_logy_
原和之,「枠の効果」
https://www.academia.edu/7133485/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E6%9E%A0_%E3%81%AE%E5%8A%B9%E6%9E%9C_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B1960%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A6%96%E8%A6%9A%E8%A3%85%E7%BD%AE_The_Frame_Effect_Lacans_Optical_Models_in_1960s_
Kazuyuki, HARA, "La tragédie comme l'au-delà de l'OEdipe"
https://www.academia.edu/4092481/Collection_UTCP9_Hara_08_Le_tragique_comme_l_au_del%C3%A0_de_l_OEdipe_Autour_de_la_Trilogie_de_Co%C3%BBfontaine
賭の断章において「私」が説得しようとしている「自由思想家(リベルタン)」は、ある仕方で「欲望(d)」の水準に自らを位置づけている。というのも彼の主体性のあり方は、他者への関係の要となるはずの「他者の欲望」から遠ざかることによって規定されているからだ。より正確には、この遠ざかりは神的〈他者〉からの遠ざかりという形をとる。この神的〈他者〉は、ある種の「意志」を持ち、恩寵(la Grâce)を司り救済を施す限りでのキリスト教の神、「祈り」のなかで「あなたの意志がなされますように(Que ta volonté soit faite.)」と呼びかけられ 、その限りで欲望を想定されているような者であると同時に、造物主としてこの世界を造り、欲望を備えた私の同類たる他者をも実在に至らしめたはずの者としての神でもある。そうした神を問いに付すということは、欲望する他者の根拠を問いに付すということに他ならない。
こうして「自由思想家(リベルタン)」は、「他者が欲望するということを欲望しない」主体のありようの一つを構成している。とはいえ彼の「欲望しない」は、未だ主体性の瓦解を伴わない。その限りにおいて「自由思想家(リベルタン)」は、「欲望(d)」の道に踏み込みつつも、その途上で立ち止まった主体であるということができる。これはある意味で、「自由思想家(リベルタン)」というあり方を、欲望する限りにおける人間全てに一般化する主張だが、こうした一般化に関してはすでにゴルドマンの先例があったことをあらためて指摘しておこう。彼は先述の1954年の発表のなかで、賭の断章は「自由思想家(リベルタン)」に向けて書かれたものではなく、「自らの条件を意識するにいたったあらゆる人間に向けて――そして暗にパスカル自身に向けても――書かれている」と述べていた 。
さて、こうした「自由思想家(リベルタン)」において先鋭的に現れる主体性を、あるいは主体の「自由思想家(リベルタン)」的なポジションを、われわれはどのように考えるべきだろうか。17世紀を生きたパスカル自身の思い描くその姿がどのようなものであったのであれ、ラカンがこの呼称をサドおよび彼の作中人物に結びつけなかったと考えるのは難しい。ラカンにとって賭の断章で展開される対話は、或る意味でパスカルとサドの対話であったといってもよいだろう。ただし歴史的に見たとき、「自由思想家(リベルタン)」の理論的側面と実践的側面のうち後者が単なる放蕩を超える極限化を被った姿で現れるのには、18世紀以降、サドの作品群を待たなくてはならない。ラカンの読解はしたがって、この二つの「自由思想家(リベルタン)」像――「ピュロン派の人」ないし「懐疑主義者」 と「快楽人( l’homme du plaisir)」 ――の間の圧縮を敢えてしているのであって、彼の読解の射程を評価するためにはこの圧縮の内実を問うことが必要になってくる。〔…〕
5.「乗船すること(embarquement)」をめぐって:ラカンによるパスカル(1969年)
ラカンの観点から言うなら、〈他者〉を前提として展開されるエディプス的弁証法は避けがたくそのもたらす象徴的な解決の脆弱性という悲劇に逢着する。そこでは主体に対して〈他者〉の二重の領野との関わりで自らの位置を定め直すという場所の問題、トポロジーの問題が提起されるのだが、この問題は「パスカルの賭」の枠組みにおいては、主体が〈他者〉との関わりにおける自らの位置を「強いられた」ものと感じるという仕方で触知可能となる。別の言い方で言えば、これは象徴的なものを創設する行為が、象徴的なものそれ自体によって回収されるかのように論ずる議論の胡乱といってもよい。そうした回収を主張する言語は、あくまで象徴的なものの圏域に属しつつも、自身がその外に及ぶ射程を持つことを主張しているわけだが、こうした誤った、とは言わないまでも、少なくとも混乱した主張がでてくる背景にある、言語のもう一つの有り様についての問いが、爾後ラカンの議論の主要なトポスの一つとして浮上してくることになる。この観点が「パスカルの賭」についてのラカンの議論をどのように深化させていったのかを、最後にみてゆくことにしよう。(以下続く)
2.ジョイスの「エゴ」としての「スティーヴン・デダラス」(Stephen Dedalus as the "Ego" of Joyce)
3.「根深いエゴイズム」から「補正エゴ」へ(From the "Ineradicable egoism" to the "Rectifying Ego")
4.「告解」の奇計から堕落への「信仰告白」へ(From the Ruse of the "Confession" to the "Confession of Faith" in the Lapse )
5.「名前」から「命名」へ(From Name to Nomination)
This paper, starting from Lacan's own remark that Stephen Dedalus is the ego or "the safety imaginary" of James Joyce, aims to show how the Lacanian concept of the "rectifying ego" as well as its illustration by borromean knots springs from this protagonist in A Portrait of the Artist as A Young man, to argue that being an artist implies for Joyce staying on the verge of the symbolic diversely organized and that it is the writing of Sephen Dedalus as a "rectifying ego" or a kind of "sinthome" that allowed Joyce to calibrate his positioning at this otherwise unstable point.
2. バディウによる分析実践―マテームと行為
3. 「 哲学」の誘惑―「〈一〉」と「形而上学」の二襞
4. 「出来事」の場所(トポス)―パウロによる「イエス」
5.. 二人の「モーセ」―フロイトとラカン
La condition d’une lecture, dit Lacan, c’est qu’elle s’impose à elle-même des limites. Que les limites que nous nous sommes posées dans les pages qui suivent, soient de nature à enrichir notre expérience des textes lacaniens. ("Avant-propos")
なお、当該の提題は、最終的に下記の形で論文化しました。https://www.academia.edu/32309385/%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B9%8B_%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86_%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81_%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9_%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE_%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9_%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AE_%E6%AC%B2%E6%9C%9B%E3%81%AE%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95_%E3%81%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE_%E5%8B%95%E7%9A%84%E7%99%BA%E7%94%9F_Kazuyuki_HARA_Ant%C3%A9-Anti-OEdipe_or_Another_OEdipus_Dialectic_of_Desire_Lacan_and_Dynamic_Genesis_Deleuze_
Nos discussions tourneront d’abord autour de cette notion d’analyse comme supposition, en tant qu’elle est motivée par un certain désir de savoir. Nous allons arguer premièrement que Freud a mis la supposition au point crucial de l’opération analytique telle qu’il l’a définie dans son Etude sur l’hystérie, et deuxièmement que ce moment de supposition se trouvera en quelque sorte « généralisé », d’abord dans les discussions que Lacan a développées sur le statut épistémologique de la science du psychisme humain en général et puis par sa redéfinition du langage comme « la chaîne singifiante », qui implique qu’une série de suppositions subjectives, s’effectuant à deux niveaux et à deux moments, se trouvent au principe même de chaque signifiant, ce qui fait que le langage apparaît comme analyse pour qu’il s’institue dans un mode d’être spécifique, qui est essentiellement « analytique ».
Ensuite, nous procéderons pour ainsi dire à une sorte de « triangulation » de la notion lacanienne de lettre par rapport à Poe et à Joyce, où il s’agit de passer cette fois de l’analyse au langage, pour nous centrer sur ce qui se produit dans et par rapport à la supposition analytique, que nous proposons d’appeler généralement « la lettre ». En examinant la lecture lacanienne de « la Lettre volée » du point de vue de l'analyse comme langage , nous montrerons, et ce sera notre troisième point, comment « la lettre » au sens lacanien du terme aurait pu se différencier, dans son mode d’être, du signifiant tel qu’il l’a défini comme « chaîne signifiante ».
Et enfin, dans notre quatrième et dernière partie, nous nous proposerons d’examiner l’écriture joycienne, pour réfléchir sur la nature de la "suppléance" réalisée par « la lettre » qu’elle produit dans un mode d’être dont la spécificité la distingue du signifiant et même de la lettre dans sa première articulation dans la lecutre lacanienne de Poe. Il s'agit là d'une suppléance au Nom-du-père dans le rôle qu’il joue à la dernière phase de l’OEdipe, et qui consistait dès le début à éviter la neutralisation de la fonction imaginaire, c’est-à-dire, à « reporter » l’échec total des tentatives de solution imaginaire du problème de l’autre articulé en termes oedipiens, et cela à l’aide du nom paternel dont le mode d’être est pourtant conçu à l’instar des « titres » ou d’un « billet ». Nous serons conduit finalement à opposer l’altérité du langage assurée d’avance dans la croyance au signifiant qui subsisterait en soi et de manière matérielle, à son altérité à l’état naissant, telle qu’on la remarque dans l’écriture joycienne, où son exogénéité épiphanique, assurant certes l’autonomie même du lagange, a tout de même besoin d’être compensée par « l’équivoque », qui permet au sujet de ne pas se laisser envahir totalement par la force de son avènement, comparable à « la parole imposée », en ouvrant un espace d’interprétation où peut s’affirmer sa subjectivité.
Version lue à l'occasion de Erasmus Mundus Europhilosophie-Journée d’études « Genre et philosophie- le sujet universel à l'épreuve de la
différence des sexes »
Date :lun 6 juin, 2016 / Heures : 18h00 - 22h00
Lieu :la salle de conférence 5, au 25e étage de la Tour Boissonade de Hosei Université (Ichigaya Campus)
われわれにとって世界が「ひらく」ことは、さしあたって完了した相のもとで出会われる。われわれは「つねにすでに」「ひらかれた」世界の内に自らを見出す。しかし芸術作品を通じて、われわれはそれが「ひらく」瞬間に近づくことができる。あるいは完了とはことなった相のもとで、「世開」の瞬間に関わる可能性を考えることができるようになる。しかしそうした瞬間が主題化されるようになると、われわれは次のような問いを問うように導かれる。そもそもそうした仕方で「ひらく」何かは、もともと「とじて」いたのでなくてはならないのではないか。それがひらくひらきかたは、むしろそれがとじていたとじかたに依存しているのではないか。
この問いをハイデガーに即して問うやり方はいくつか考えられる。これをたとえば真理の、不伏蔵態の、アレーテイアのはらむ二重性の問題として考えることはできるだろう。『芸術作品の起源』においてこれは、世界と大地の「争い」として提示されていた 。あるいは彼が『形而上学の根本諸概念』で「世界」をめぐって立てた区別―「世界形成的」、「世界貧乏的」、「無世界的」―を手がかりにする道もあるかもしれない。しかしここではまず、ハイデガーがそもそも『存在と時間』において、「世界」がひらくひらき方をどのように記述していたかを、より詳細に検討してみることにしよう。というのもまさにこの部分をブリッジとして、「ひらく」ことの別のありようを問題にする、ラカンの議論への接続が果たされることになるからだ。[....]