アルトゥーロ・メルツァリオ
アルトゥーロ・メルツァリオ Arturo Merzario | |
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アルトゥーロ・メルツァリオ (2009年) | |
基本情報 | |
フルネーム |
アルトゥーロ・フランチェスコ・メルツァリオ Arturo Francesco Merzario |
国籍 | イタリア |
出身地 |
イタリア王国 コモ県チヴェンナ |
生年月日 | 1943年3月11日(81歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1972,1973-1975,1976,1977,1978-1979 |
所属チーム |
'72,'73 フェラーリ '74 イソ・マールボロ (ウィリアムズ) '75,'76 ウィリアムズ '75 フィッティパルディ '76,'77 マーチ '77 シャドウ '78-'79 メルツァリオ |
出走回数 | 85 (57スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 11 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1972年イギリスGP |
最終戦 | 1979年アメリカGP |
アルトゥーロ・フランチェスコ・"アート"・メルツァリオ(Arturo Francesco "Art" Merzario 1943年3月11日 - )は、イタリアの元レーシングドライバー。また1978年から1979年にかけて参戦したコンストラクター「メルツァリオ」のチームオーナー。姓は「メルザリオ/メルヅァリオ」と表記されることもある。マールボロのテンガロンハットがトレードマーク[1]。
プロフィール
初期の経歴
コモ県チヴェンナ出身。コクピット内部に潜り込むようなドライビングスタイルが特徴[2]。1960年代からイタリア国内やヨーロッパでスポーツカーレースで活躍、1970年よりスクーデリア・フェラーリに加入した。
フォーミュラ1
1972年にスポンサーのマールボロの支援によりスポット参戦ながらフェラーリからF1デビューし6位入賞。この年はスポーツカーレースを優先し、同年のスパ1000km、タルガ・フローリオなどを制した。
1973年はフェラーリからF1にフル参戦。フェラーリからのイタリア人ドライバーのF1フル参戦としては、1967年シーズン中に事故死したロレンツォ・バンディーニ以来のことであったが、この年のフェラーリは設計ミスと安定性のないマシンにより1勝も挙げられないほどの低迷ぶりを見せ、同僚のジャッキー・イクスとともに悪戦苦闘を強いられる。
結局最高位は2度の4位に留まり、チームとしても合計12ポイントしか獲得できないという惨憺たる結果に終わる。このことについて当時のフェラーリ総帥だったエンツォ・フェラーリは、生前「彼にはすまない事をした」と語っている。
1974年からはフェラーリを離脱しフランク・ウィリアムズのチーム(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ)から参戦。度重なるマシントラブルに泣かされたが、1974年の地元イタリアグランプリでは4位入賞を果たす。また1975年のイタリアグランプリのみ、指の骨折で欠場したウィルソン・フィッティパルディの代役としてフィッティパルディから出走した(11位完走)。
1976年はマーチから参戦するも、シーズン途中でウィリアムズに復帰。その復帰初戦となったドイツグランプリではニキ・ラウダの大事故に遭遇したが、ブレット・ランガーやガイ・エドワーズ、ハラルド・アートルらとともにラウダの救出にあたり、このこともありラウダは顔面に大やけどを負ったものの一命を取り留めた。
F1自チームの設立
創設者 | アルトゥーロ・メルツァリオ |
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ドライバー |
アルトゥーロ・メルツァリオ アルベルト・コロンボ ジャンフランコ・ブランカテリ |
参戦年度 | 1977-1979 |
出走回数 | 38 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1977年スペインGP |
最終戦 | 1979年アメリカGP |
1977年には自らがオーナーとなり、自チーム「チーム・メルツァリオ」を設立。初年度はマーチのシャーシを購入しての参戦だったが、完走は出走した7戦中1戦のみに終わる。また第12戦オーストリアグランプリのみ、自チームからではなくシャドウから出走している(決勝リタイア)。
チーム2年目となった1978年は、マーチのシャーシを改造し独自のマシンである「メルツァリオA1」を制作。コンストラクターとして参戦したものの、16戦中完走ゼロ,予選落ち6回,予備予選落ち2回という散々な成績に終わる。またイタリアグランプリのみではあるが、アルベルト・コロンボを2台目として出走させている(メルツァリオ:決勝リタイア/コロンボ:予備予選落ち)。
1979年は、序盤4戦は前作の改良版「メルツァリオA1B」で参戦するも完走ゼロ(うち2回予選落ち)、その後新車「メルツァリオA2」を投入。またシーズン途中で撤退したカウーゼンからマシンパーツを買い取って「メルツァリオA4」も制作したが、A2を投入した第5戦以降全戦で予選落ちを喫してしまい、メルツァリオはチームとともにこの年をもってF1から退いた。なおこの年のモナコグランプリのみメルツァリオの代役として、カウーゼンのドライバーだったジャンフランコ・ブランカテリが出走した(予備予選落ち)。
フォーミュラ2
1980年からメルツァリオは独自シャシーでの参戦カテゴリーをヨーロッパF2選手権へと移した。F2参戦用マシン「メルツァリオ・M1-BMW」を制作し、メルツァリオ自らのドライブでフル参戦する。しかし最高位は9位でポイント獲得には届かなかった。1981年はマーチ・812とメルツァリオ・M1の併用で参戦し、自身のドライブによるF2参戦はこの年までとなった。1982年にチーム・メルツァリオはドライバーにヨー・ガルトナーを起用してニューマシン、メルツァリオ・282-BMWを制作。ガルトナーが開幕戦シルバーストンにて6位入賞を果たし、初のポイント獲得に成功。第3戦スラクストンではリチャード・ダーレストも同マシンで6位1ポイントを獲得した。1983年に新シャシー、メルツァリオ・M28-BMWを登場させ、これをダーレストやグイド・ダッコがドライブしたが、最高成績は7位でポイント未獲得に終わった。1984年用のマシンはメルツァリオ・M84-BMWで、アルド・ベルトッツィとステファノ・リヴィオ、マックス・バスリンガーがドライブしたが、最高位は2度の10位だった。同年を最後にヨーロッパF2選手権の終了が決まり、チーム及びコンストラクターとしてのチーム・メルツァリオの活動は終了した。
スポーツカー選手権
メルツァリオはドライバーとしてその後もイタリアやヨーロッパのスポーツカー選手権に参戦を続け、アルファロメオなどのワークスドライバーとして1990年代まで第一線で活躍した。
現在
現在もモータースポーツへの情熱は衰えておらず、様々なレースにスポット参戦しているほか、イタリア国内でヒストリックカーレースに参戦しつつレーシングドライビングスクールを経営したり、モータースポーツイベントのために来日したりしている[3]。
レース戦績
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合 順位 |
クラス 順位 |
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1970年 | SpA・フェラーリ・SEFAC | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ・512 S | S 5.0 | 38 | DNF | DNF |
1973年 | SpA・フェラーリ・SEFAC | カルロス・パーチェ | フェラーリ・312 PB | S 3.0 | 349 | 2位 | 2位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 順位 | ポイント |
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1971年 (英語版) |
レーシング・チーム・アイリス | テクノ・TF70 | コスワース FVA | HOC Ret |
THR | NÜR | JAR DNQ |
PAL | ROU DNQ |
MAN | TUL | ALB | VAL | VAL | NC | 0 | |||
1974年 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | オゼッラ・PA2 | BMW | BAR | HOC | PAU | SAL | HOC | MUG | KAR | PER | HOC | VAL Ret |
NC | 0 | ||||
1975年 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | オゼッラ・FA2 | BMW | EST | THR | HOC | NÜR | PAU | HOC | SAL | ROU | MUG | PER | SIL Ret |
ZOL | NOG | VAL Ret |
NC | 0 |
1976年 | ヴィリー・カウーゼン・レーシング・チーム (英語版) |
マーチ・762 | ハート | HOC | THR | VAL | SAL | PAU | HOC | ROU | MUG | PER DNS |
EST | NOG | NC | 0 | |||
オゼッラ・スクアドラ・コルセ | オゼッラ・FA2 | BMW | HOC DNQ |
||||||||||||||||
1977年 | フレッド・オペルト・レーシング (英語版) |
シェブロン・B40 (英語版) |
ハート | SIL | THR | HOC | NÜR | VAL | PAU | MUG | ROU | NOG | PER | MIS Ret |
EST | DON | NC | 0 | |
1978年 | ICI・シェブロン・カーズ (英語版) |
シェブロン・B42 (英語版) |
ハート | THR | HOC | NÜR | PAU | MUG 6 |
VAL | ROU | DON | NOG | PER | MIS 5 |
HOC | 18位 | 3 | ||
1980年 | メルツァリオ・チーム・Srl (英語版) |
メルツァリオ・M1 (英語版) |
BMW | THR Ret |
HOC Ret |
NÜR Ret |
VAL | PAU 9 |
SIL Ret |
ZOL | MUG 16 |
ZAN 17 |
PER DNS |
MIS | HOC Ret |
27位 | 0 | ||
1981年 | アストラ・チーム・メルツァリオ・Srl | SIL DNQ |
HOC | THR DNS |
MAN Ret |
NC | 0 | ||||||||||||
マーチ・812 | NÜR Ret |
VAL | MUG | PAU | PER | SPA | DON | MIS |
フォーミュラ1
フォーミュラ1(ノン・チャンピオンシップ)
年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 |
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1974年 | ウィリアムズ (イソ・マールボロ) |
FW | フォード・コスワース DFV 3.0 V8 | PRE 3 |
ROC | INT |
1975年 | ウィリアムズ | FW03 | フォード・コスワース DFV 3.0 V8 | ROC 7 |
INT DNS |
SUI |
1979年 | メルツァリオ (英語版) |
A4 | フォード・コスワース DFV 3.0 V8 | ROC | GNM | DIN 11 |
脚注
- ^ “かつての偉大なレーサー:アルトゥーロ・メルツァリオ”. www.ferrari.com. 2023年7月29日閲覧。
- ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』 エムオン・エンタテインメント、 2013年9月号、92 - 93頁。
- ^ “「ウルフカウンタック フルレストア完成披露レセプション」の会場から 内装・外装など27枚 【画像・写真】”. webCG. 2015年4月18日閲覧。