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55年体制

ごじゅうごねんたいせい

55年体制は日本の政党政治の1955年以降 - 平成初期にかけての構図の通称。
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概要編集

この言葉は1964年に発表された論文に記載されたのが最初である。

右派』と『左派』に分裂していた日本社会党社会党)が1955年10月に統一同年11月には鳩山一郎率いる日本民主党と、吉田茂率いる自由党が合併し自由民主党自民党)を結成。こうして保守陣営の自由民主党と革新陣営の日本社会党による戦後の2大政党制が確立された。

しかし、この55年体制が成立した当初から、社会党は自民党の半分程の議席数しか衆議院参議院で獲得出来ず、『自民党が万年与党、社会党が万年野党』『1と2分の一政党制』という状態となった。

これによりそれまで議席を得ていたこともあった小さな政党及び無所属議員はほぼ消滅した。

なお、日本共産党(共産党)は同年武装闘争路線の放棄を決議したものの、1桁の議席獲得に留まり一般への浸透はまだ先のことである。


この時代の状況編集

 議席の獲得状況を見れば具体的には、自民党が過半数割れ - 2/3を超えない程度の議席数でずっと第1党を維持、社民党が35%から第2党(野党第1党)を維持、残った議席数を武装闘争路線放棄が浸透した共産党1954年創価学会を母体として成立しその後政教分離を表明した公明党1961年に日本社会党より分裂した民社党、その他諸派(政党とは見なされない、あるいはギリギリ見なされるミニ政党)や無所属が分けることで、均衡が保たれていた。

また、自らの改革に消極的であり、状況を打開出来ない社会党は支持基盤を労働組合中心とし、過半数を取得しない消極的選挙政策等に出る様になる。

なお、中規模政党成立に伴い、1975年以降を「75年体制」と呼ぶことがある。


役割編集

基本的に選挙による政権交代がないために与党野党共に役割が固定化し、国際的には一党優位政党制(公正な自由選挙が実施されている状況で特定の政党が権力を握る状況)の一種として分類された。また、自民党は法案や予算の成立過程において、主に主張が一部で近い民社党や公明党と連携を取りつつ、時には社会党とも妥協をして成立させて行った。

こうした状態をおいて一部からは「ヘゲモニー政党制」(大政党の他に小政党が存在するが、それ以外の政党を認めない形式、社会主義国や開発独裁国などで見られる)の一種という主張も存在し、そこから「日本は世界で最も成功した社会主義国」とのネタまで生まれた程であったが、勿論自由選挙の結果である。


首相の地位編集

一方で、政権政党が自民党に固定化する中でそのである首相の地位は安定しなかった。1960年代から70年代にかけての佐藤栄作政権が約8年続いて以降、2年ほどで首相が交代していくサイクルを取ることになる。

 この理由としては自民党の与党時代が長く続く中で、党内派閥間の競争が活発化し、各派閥のたちによる「疑似的な政権交代」が行われることで政権の「飽き」を国民に感じさせずに運営していくというシステムの確立、さらに当時は1選挙区で2 - 5人を選出する「中選挙区」制度を実施していた。この選挙態勢で安定して過半数を維持するためには、派閥別に同じ自民党ごとに分かれて選挙区を戦い、選挙区毎に複数議席を獲得するより他なかった。

これに伴い派閥が党内政党の様な役割を果たし、派閥のバランスによって容易に政権が成り変わることとなったことにもよる。


中曽根独裁編集

しかし、いわゆる「」ともいわれた佐藤後継の有力者達の首相就任が一巡し、唯一残された彼らと同世代の中曽根康弘が首相に就任するとその次世代の有力者達に権力が手渡される移行期に入る。

この中で中曽根は自党を過半数割れに追込むも、政権や選挙の運営により久方振りの総裁再選・政権の5年間維持を成し遂げ、田中角栄に代わって党内最大派閥を「継承」(実際には権力奪取)した竹下登に繋げた。

1986年のいわゆる「死んだふり解散」では自民党が大勝し社会党が惨敗したが、そこから消費税導入と大規模汚職事件であるリクルート事件リクルートの会長が有力政治家などに当時非公開であった子会社の株式を譲渡した事件)勃発に伴う大スキャンダルにより、1989年の参院選では土井たか子ブームで社会党が大勝して参議院での過半数割れが発生し、55年体制に大幅な揺らぎが生じた。また、この影の立役者といわれるのが土井を頻繁に出演させていた当時の高視聴率番組「ニュースステーション」であり、後の椿事件に繋がる遺恨を残すことに。

竹下首相失脚後の竹下派内での次期リーダー争いで橋本龍太郎小渕恵三らと小沢一郎羽田孜らの対立が発生したことで自民党自体の分裂含みの不安定な政治状況となる。


体制崩壊編集

1992年 - 翌年にかけて自民党から分裂した小沢一郎や羽田孜を中心とした新生党武村正義鳩山由紀夫を中心とした新党さきがけ、あるいは新たな候補を擁立した日本新党の3党のほか、社会党を含めた合計8党連立による非自民・非共産の細川護煕内閣が1993年に発足、自民党が野党に転落し55年体制が崩壊・終焉に至る。

場合によっては1994年村山富市政権の成立、あるいは新進党の結成が体制の崩壊とみなす場合もある。

55年体制の崩壊は当時の「政権交代が(党内派閥により疑似的にしか)起こらない」状況や「政治汚職の多発」による抜本的刷新を皆が望んだ結果でもあった。


付記・その後の55年体制各党編集

55年体制の崩壊後においては以下の通りである。この状況に関しては別項目にでも記載すべきであるが、この状況に関しては確たる名称がつけられていないと思われピクシブ百科事典にも存在しないと思われるためここに記述する。

細川内閣は細川自身の献金スキャンダルもあって1年と持たずに瓦解、羽田による超短期政権を経て、自民党は1994年村山富市内閣(社会党・自民党・新党さきがけの3党連立)発足によって、与党に復帰した。

村山内閣は戦後初となる自民・社会の連立政権であったが、当時新生党系の新党設立に向けて社会党からは離党者が続出し、社会党の党勢は大幅に衰退していた。

社会党は村山内閣では与党であったが、1996年に党名を日本社会党から社会民主党社民党)に変えて以降、離党者などで党勢は衰退、少数政党となっていった。

公明・民社党は新生党など新製政党各党と合併し新進党を結成、社会党に代わる政権交代を目指す野党第一党政党となるものの、1996年の総選挙に敗北した後に解党、同年に新進党らと争う形で成立した民主党と一部が合流し、次の野党第1党として民主党(2代目)が誕生する。しかし、公明党の大半の議員はこれに合流せず、参議院「公明」との統合で新生公明党を誕生させた。民社党は党内派閥「民社協会」として取込まれる形となった。その後自公政権が確立して現在に至る。共産党のみ完全に独自路線を歩み続けている。

さらに自民党も含め各党では離脱者及び政党間移籍者が続出し日本政治状況は不安定な状況が続いた。

1996年の新進党・2003年の民主党・2009年の自民党(2009 - 2012年、自民党2度目の野党転落時期)までは150席の大台を突破した以外は野党第1党でも100 - 120議席の議席獲得に留まった。

2005年の総選挙以降は、衆議院総議席480席中300議席前後を常に第1党が占める寡占状態が続いており、こうした状況に選挙制度が1選挙区に1名の当選者を出す小選挙区制中心となったことの弊害を指摘する声があり、野党支持者や、2009年には野党になった自民党からも、中選挙区制のほうが良かったという声が聞かれる状況になった。

しかしながら、イデオロギーなどで政党の体制が固定化していたのが、自民党出身の一部議員が野党勢力に流れ込んだことで、政権交代が可能な土壌が生まれ、結果的には非自民政権は何れも長命を保つことはできなかったものの、冷戦という特異な環境の中で社会党が万年野党体制を固着化していた状況を打破するためにも小選挙区制は必須であったとも考えられる。


復活?編集

2012年以降は第2党でも50 - 70議席の獲得がやっととなるなど、自民党とその他の一強他弱体制が続いていた。

民主党は思想の振れ幅が大きい議員が呉越同舟的に同居する政党となったことで、多様な意見を包括するよりも、意見がまとまらずにすぐに離合集散してしまう。2010年代には離合集散を経て社会党を彷彿させる立憲民主党と、民社党を彷彿させる国民民主党に再度分かれ、さらに初期公明党的なポジションである日本維新の会の登場と、55年体制の如き状況が再度生まれている。

後代になるとバブル崩壊時期に政界が混迷していたことで不況対策が後手後手となったことも指摘されており、また55年体制の象徴的存在である田中角栄ら保守本流再評価が進んでいる。思えば55年体制の時代は右肩上がりであった時代であり、そのノスタルジーは大きいのかもしれない。


しかし2024年…。編集

しかし2024年10月27日に行われた衆院選挙では、自民党の議席が191議席、公明党が24議席合計で215議席と、過半数の233議席を下回った

野党第1党の立憲民主党は148議席へと躍進したが、自民党は第一党の地位はなんとか守った。

いわゆる「政治とカネ」、自民党の裏金問題に対し有権者の怒りが突きつけられた選挙結果となったが、今後の政権の枠組みについては、自公を中心とする政権になるのか、野党に政権が移るのか、情勢は非常に不確実となっている。


関連項目編集

日本国 政治 昭和史


参照編集

wikipedia:同項目

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