1980年代
せんきゅうひゃくはちじゅうねんだい
社会
中盤には円高不況もあったものの、前期は日本が世界第2の経済大国に上り詰めた安定成長期、後期はバブル景気華やかなりし時代で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と謳われた頃であった。
1973年のオイルショック以降、西欧や北米がインフレと不況(スタグフレーション)に喘いだのに対し、日本は従来の製鉄・造船・石油化学などから電気電子やソフトウェア・サービスなどの「ハイテク」産業・自動車産業などへの産業構造の転換を成功させ、オイルショック以降も安定的な経済成長を続けた。この結果、自動車、半導体などの「集中豪雨的輸出」が国際問題となり、欧米諸国(特にアメリカ合衆国)においてジャパンバッシングと言われる反日本感情の増大が国際問題となった。
アメリカ政府は日本に対し牛肉オレンジ問題、日米コメ戦争などに代表されるアメリカ製品の輸入拡大、規制改革の要求といった内政干渉を行い、中曽根康弘政権はこれを丸呑みした(アメリカからの要求に応じて実施された度を越した金融緩和や規制緩和政策がバブル景気発生の原因のひとつである)。
自動車
現在では忘れ去られているが、1980年代前半は、オイルショックの煽りでガソリン価格が高騰した時代であった。1982年には過去最高値の177円を記録し、この記録は26年後まで抜かれることはなかった。売れ筋の自動車も日産・マーチ、MAZDA・ファミリア、ホンダ・シビックや初代シティなど総じて燃費重視であり、四角いボディに四角いライトとデザイン的には地味なものが多い。当時としては驚異の燃費36km/Lをたたき出したダイハツのシャレードDE-TXをはじめディーゼル車も人気があり、トヨタ・カローラにディーゼルが用意されていたのもこの時期ならでは。お陰で幹線道路沿いでは自動車排ガスによる大気汚染が深刻化してしまい、昭和61年排出ガス規制/昭和62年排出ガス規制でディーゼル乗用車が規制される。
休日は省エネのためマイカー自粛が呼び掛けられ、ガソリンスタンドも土日祝日は休業。おかげで地方でも鉄道やバスで買い物やレジャーに出かけるという習慣が残っており、地方都市の商店街が繁栄していた最後の時代でもあった。
しかし、1985年ごろから原油価格が急落。ガソリンスタンドの休日営業も始まり、1990年代以降の地方商店街のシャッター街化の伏線となる。また、ガソリン価格の下落により、1982年の発売当初は燃費の悪さから販売が低調であった三菱のパジェロが爆発的に売れ出し、4WDのクロカン車を街乗りする習慣が定着。トヨタもハイラックスサーフで追随する。ガソリン価格の下落とバブル景気は排ガス規制後の業界の沈滞感を完全に吹き飛ばし、多くのメーカーはこの世の春を謳歌する一方、燃費の良いディーゼル車を主力としていたいすゞの乗用車撤退の遠因になった。
当時は背の高いクルマ=ダサいというイメージがあり、セダンやハッチバックも1300mm~1400mm台と、2010年代のスポーツカー並みの低いクルマが一般的。1985年にデビューしたトヨタのカリーナEDは全高1310mmの4ドア車で、自動車評論家からはその居住性の悪さが酷評されるもクーペ風のスタイルが受けて大ヒットを記録した。
一方、三菱・シャリオや日産・プレーリーなど、車高が高めのミニバンが登場するのもこの時代からである。1989年に登場したスバル・レガシィは従来のスバル車のイメージを払拭するスタイルが受け、ワゴン=商用バンの派生という偏見はすっかり過去のものとなった。
ファッション
1980年代の日本のファッションの流行は、複数回大きく変わっている。
最初の大きな変化は1983年から1984年で、80年代初頭はサーファーファッションにしても竹の子族にしても今で言うヤンキー臭が強く、どことなく70年代後期のカラーを残していたが1984年あたりからファッションのトレンドは70年代の残り香を払拭しソフト化。一気に洗練され大人っぽくなる。バブルに突入した1986年ごろからはDCブランドの流行などもあり、イタリア産服飾やアメリカ直輸入のカジュアルファッション等、高級志向・本物志向のスタイルがトレンドとなった。
一方で地方の10代のツッパリ(不良)はこの流れに取り残され、サーファーファッションや竹の子族の流れをくむスタイルを洗練とは逆の方向(キッチュ)に極端化していき、ついに暴走族のスタイル(特攻服など)に代表されるヤンキー文化を生み出すこととなる。また日本特有のキッチュの別の流れとして、ロリィタファッションの原型が生み出された時代でもある。
この時期に流行したアイテムとして、スタジャン、ケミカルウォッシュジーンズ、スニーカーなどがある。オーバーサイズ気味のジャケットに肩パッドを入れ、ダボダボしたシルエットに着こなすスタイルが広まっていた。
ヘアスタイルでは男性のツーブロックスタイル、女性のソバージュやワンレンなどが広まった。前半から中盤には男性のリーゼントも流行していた。
通信と電話
1985年、日本電信電話公社は日本電信電話株式会社 (NTT) へと民営化された。また、第二電電株式会社(現 :KDDI)をはじめとする「新電電」の参入が可能となり、電話機も自由化された。これにより、電話はダイヤル式の黒電話からプッシュホン主流へと移り変わっていく。また、それまでは業務用途のみで使われていたFAXが一般家庭にも浸透していった。
当時、すでにキャプテンシステムやパソコン通信など、通信回線に文字・画像・動画などのデジタルデータを送る試みは始まっていた。しかし、電話回線を通じたダイヤルアップ接続の回線速度はとてつもなく遅く(当時の通信速度は約150ビット/秒(bps)、最大でも300bps程度で、1秒間に40文字も送れないような時代だったのである)、デジタル社会を支えるインフラはまだ整っていなかった。インターネットはまだ一般商用が解禁されておらず、大学や研究機関などでのみ使われていた。当時の携帯電話はまだアナログ時代であり通話だけしかできず、通話料もとても高かったので、一般人にはほぼ無縁の存在だった。
コンピューター
1980年代はコンピューターが人々の生活に入り込みはじめた時代であるが、その性能は後の時代に比べると遥かに低かった。
1980年代初頭のパソコンはユーザーが自らBASICなどでプログラミングすることが前提であり、マニア以外の手には負えないものであった。NEC、富士通、SHARPなどがそれぞれ独自規格でシェアを争ったが、最終的にはNECのPC-8801(8ビット)、PC-9801(16ビット)が主流を占めた。80年代中盤から後半にかけてパッケージソフトウェアを購入することが常識になり、パソコンの性能も向上してワープロや表計算などを仕事で使う人のほか、PCゲームやパソコン通信、電子音楽などを楽しむ趣味人の間に広がり始める。ただし「一家に一台」と言われるほどの普及はまだ先(1990年代後半)の話で、1983年にリーズナブルなパソコンとして登場したMSXは、主に「プログラミングができるゲーム機」として使われていた。この時代、一般家庭向けコンピュータとしてはパソコンよりむしろワープロ専用機が大いに普及した。タイプライターがマイナーだった日本でキーボードで文書作成する習慣が浸透したのは80年代後半以降である。
日本のゲーム機で最初に成功を収めたのはエポック社のカセットビジョン(1981年)であったが、1983年に発売された任天堂のファミリーコンピュータがたちまちこれを抜き去り、1985年にリリースされたスーパーマリオブラザーズのヒットを機に、その地位を不動のものとした。
この頃安価な8ビットCPUの大量生産が始まり、家電や自動車にもコンピューターが組み込まれ始め、「マイコン制御」(今で言う組み込みシステム)はメーカーの売り文句となっていた。またATMなどのオンラインシステムが一般化したのもこの頃である。生活のいたるところにコンピューターが入り込み、コンピューターなしでは夜も昼も明けない時代が到来したのである。
音楽
1980年代の楽曲を参照。
1970年代と打って変わってアメリカ合衆国の黄金期である。アメリカ合衆国は「強いアメリカ」を標榜したロナルド・レーガンのもと勢力を回復し、ジョージ・H・W・ブッシュはマルタ会談において冷戦を事実上終結させた。この時期は文化的にも全盛期で世界を席巻しており、ハリウッド映画にはこの時期第二作、三作が公開されたジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」シリーズ、スティーブン・スピルバーグの作品群をはじめ名作と呼ばれる作品が多く(「タクシー・ドライバー」など前代の暗い作風はアメリカ国民にも支持されていなかった)、洋楽の分野では「キング・オブ・ポップ」ことマイケル・ジャクソン、マドンナのような世界的大スターも登場した。日本人の知っている洋楽はだいたい1980年代までのものが多い。
ソ連はアフガニスタン戦争の泥沼に喘ぐ中、ソ連及び東側ヨーロッパ諸国の経済危機が深刻化。行列が日常化し、80年代後半には東欧革命が始まる。
1972年の日中国交正常化から引き続き、近代以降で日中関係が一番良好だった時期である。当時改革開放が始まっていたが、その後の経済成長を予測する人はほとんどいなかった。この良好ムードは教科書問題と天安門事件で終わる。
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【関連情報】参考文献・映画作品など
*文中、https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11520158 ほどではないものの、本編(プロローグ~第4話)のシーンへの言及がありますので、「ネタバレ」をお好みでない方は、本編の読後にご覧になることをお勧めします。 本作品を書くにあたって参考にした/影響を受けた文献・小説・映画等について、2000年代初めの公開時にホームページ上にアップしたものの再掲。今後、追加情報・補足等を加筆していこうかと思っています。 文面を今見ますと、1980年代後半に最初の構想を練っていた頃を回想しながら書いていて、今回の再掲で、いわば「回想の二重構造」のような形になります。これを機に全面的に書き改めようとも思ったんですが、あえて当時の文面をなるべく生かしながら、絶版や販売終了、音楽番組の放送終了などの情報を補う形にしました。 この間、チリその他南米のミュージシャンについてのネット情報(ウィキペディア他)、またユーチューブなどを通じた楽曲そのもののネット配信もずいぶん充実しました。、それらについても適宜リンクしていきたいと思っています。 「ラ・レプブリカ」はオリジナルの一次創作を自任していますが、あえて誤解を恐れずに言えば、ある意味、ここで紹介した先人たちの力作の二次創作ともいえます。すべからく、「創作」とはそういうものかもしれませんけど。23,031文字pixiv小説作品 - ラ・レプブリカ La República
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