福井県のうち、嶺北地方全域と敦賀市、そして岐阜県郡上市白鳥町の一部(石徹白地区)が国域とされる。「『京』から近すぎず遠すぎず」という地理的要因から、古くから京とのつながりが強く、戦国時代には戦力上の拠点として重要視され、たびたび戦乱の地となっている。
その戦国時代には、朝倉氏が一乗谷に山城を構え、ふもとの城下町は朝倉義景が織田信長に倒されるまで、栄華を誇った。現在でもその遺跡が残っており、国特別史跡、国特別名勝、国重要文化財に指定して保存されている。
朝倉氏が倒れた後は、柴田勝家が北ノ庄に城を構え、越前国を治めた。しかし、本能寺の変で織田信長が倒れると羽柴秀吉と対立。賤ケ岳の戦い・北ノ庄城の戦いが勃発し、柴田勝家は燃え盛る北ノ庄城の中で自害した。その後は丹羽長秀や堀秀政が治め、関ヶ原の戦い後は、武功を立てた結城秀康が北ノ庄城を改修して福井城を築城し、北ノ庄藩を開いた。3代藩主の松平忠昌が治めた頃になると、「北ノ庄」という地名が「敗北」をイメージしてしまうことから、「福居(福井)」に改称し、藩名も「福井藩」となった。
奥越地方では、金森長近が大野に越前大野城を築城し、周辺を治めた。また、越前国は古来からサバの産地としても知られ、付近を通る美濃街道がサバの輸送路として重要視され、発達した。このことから、通称「鯖街道(サバ街道)」とも呼ばれた。江戸時代になると参勤交代の際に通行する街道として利用された。現在では国道158号がこの街道を踏襲している。
このことから岐阜県の奥美濃地方ともつながりが強く、国域に岐阜県の一部が入っている理由もこの背景があったからであるとされる。
敦賀ではのちに関ケ原の戦いに西軍として出陣した大谷吉継が敦賀城を築城して治めた。
国府は現在の越前市内に置かれ、平安時代には、紫式部の父である藤原為時が越前国司に任じられている。この時、紫式部が父に同行して越前国に住んでいたと伝わっている。
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最終更新:2024/12/16(月) 20:00
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