客観的教会論とは、果たしてニコニコ大百科に必要なのか、と、言いたくなる記事である。
キリスト教会、ことローマ・カトリック教会の教会論のことである。簡単に言えば、「教会という『存在』に神が宿る」ということ。あるいは、現世と天上の国を繋ぐ唯一無二の教会としての役割を説明するための論(唯一無二、と書いているのは、あくまでカトリック教会が自称しているからに過ぎない)。
教会という組織にこそその主体があるため、その成員の人格、徳性とは無関係に教会は存在するということになる。
そもそも客観的教会論が必要になるのは、この秘蹟に関する問題に対して、教会が自己弁護を行う必要性があるからである。
秘蹟とは、『洗礼、堅信、聖餐、婚姻、終油、叙階、告解』の七つであり、これを七秘蹟という。それら一つ一つには明確な意味を持つ。洗礼はキリストの肉体とつながる事を意味し、堅信は、自由意志においてキリスト教信仰を受容するか、そして受容したものにたいして行われる秘蹟、聖餐はキリストの血肉をその体内に授け、婚姻は男女の婚姻が正当なものであり、解消されないことを神によって明確化させ、終油は死に際して救いを得るために行われる最後の秘蹟、叙階は教会ヒエラルキーの中での位置づけを神によって授けるもの、告解は個人が犯した罪を教会が聞く事によってその罪に対して赦しを与えることである。
この七つの中でも最も重要なのが洗礼で、それは既に述べた意味を持っている。ただ、問題なのは幼児洗礼である。幼児には自由意志が無いため、親の思考によってそれが取り決められる。そのため、そこにはキリスト教信仰を行うための『カリスマ(宗教的情熱)』が存在しない。にも拘らず、キリスト教信仰の内に取り込むのは信仰として正しいのか、という問題がある。だが、この七秘蹟が定められた古代において、幼児の死亡率はきわめて高く、洗礼を受けないまま死ぬ事は、すなわちそれが地獄での永遠の苦しみと直結するものであった。故に幼児をその地獄から救うために行われるものであった。カトリックでは現在も幼児洗礼を行っているものの、堅信にこそ重きを置いており、堅信を受けるか否かは本人の自由意志に基づいている。カトリック教会の立場は現在、「量より質」である。
秘蹟に関する意味的な問題は既に述べたが、更に問題なのがそれを執り行う聖職者の問題である。この事について教会に対して問題を提起したのは、4世紀ごろ北アフリカにて生まれたドナートゥス派(ドナティスト異端)であった。
4世紀というのは、すなわちキリスト教会が世俗権力と結びついた時代である。これによってキリスト教は公認され、さらには国教化されるに至ったのだが、ドナティスト異端はそれに異を唱えた。彼らは叫ぶ「キリスト教は王侯と何のかかわりがある、司教は宮廷と何のかかわりがある?」。世俗君主と結びつく事とは、ドナティストにとって『堕落』を意味した。教会とは本来神と人とを繋ぐのみであるはずだ、と。更に言えばこの時代、聖職者の中でも、厳しい迫害を受けて一時期キリスト教信仰を捨てるものも居た。彼らが再びキリスト教信仰に戻る事が、ドナティストにとっては許しがたい害悪であったのだ。故に彼らは教会を否定し、「与えるべきものを持たない者が、どうして与える事ができようか!」「悪人の洗礼は、そこに神がいない。その洗礼には、罪人の罪によって穢れている」といった。これはすなわち教会の秘蹟の否定である。
彼らの主張を纏めると、秘蹟授与は、授与者の徳性にその主体がある、ということである。これを主観的秘蹟論という。この主観的秘蹟論は極めて分りやすい。授与者の人格が優れていれば、それは神とのつながりを持っているものである。故に、その神とのつながりを持つものであれば、それが例え俗人であっても、秘蹟の授与は可能である。というものである。
この問題に対して教会はアルル公会議(314年)において次のように述べる。「アフリカ人については、彼らが再洗礼という彼らだけの定めをもちいているので、異端である。異端のある者が教会に来た時は、彼の受けたシンボルが問いただされるべきである。もし彼が、聖三位一体の御名において洗礼を受けた事が分ったならば、ただ按手のみが加えられるべきである」。この回答は、秘蹟の本質は「聖三位一体への呼びかけ」によるものであるという事になる。これはすなわち聖職者の道具性を意味し、聖職者の人格は、秘蹟の効力は関与しないということになる。
また、もう一つの問題が、再洗礼である。再洗礼とはすなわち、『消えるはずの無い刻印(秘蹟)に、上から更に刻印を重ねる事』である。もしこれが許された場合、教会の権威は失墜する。故に、その刻印は消えないとし、重要なのはその聖三位一体への呼びかけであるとした。これは一見すれば教会の自己弁護である。しかしながら、同時に重要な問題を秘めており、それが叙階に関する問題である。
もし罪にある者が叙階された場合、あるいは叙階されたものが罪を犯した場合、その人間の与えた秘蹟は有効か否か、という問題である。もしも、この人間の秘蹟が無効であると仮定すると、その人間による叙階は意味を成さなくなる。これがもし教皇であった場合、全ての聖職者の秘蹟が無効化するということになってしまう。これはすなわち、カトリック信仰を為す者全てが、その信仰を否定されることを意味する。信徒はこのような状態に成ると、最早途方にくれるしかなくなるのである。教会はこの極限状態を仮定し、それに対して次のように答えた。「聖書、あるいは聖器をわたし、あるいは仲間の名を告げたといわれるものについては、その任を解かれる。また、彼らが単に言葉だけではなく、公の行為において、裏切りが探知されるものについても任を解かれるべきである。だが、そういった罪人が既に叙任をしていた場合、その被叙任者が、聖職にふさわしい人間であるならば、その叙任は有効である。なぜならそれは聖三位一体によるものだから...」。これは叙階の秘蹟についても洗礼と同じ事が言える、ということである。
これによってドナティスト異端は退けられた。アルル公会議はコンスタンティヌス帝による公認の翌年であるから、キリスト教徒への迫害はなかったが、しかし、ドナティストに対しては迫害が続いた。にも拘らず、ドナティストは存続し続け、問題はなお提起され続けた。
この事に対して政治的に解決したのはホノリウス帝であったが、神学的な解決を行ったのはアウグスティヌスであった。
アウグスティヌスという人物は、世界史を学んだものであれば誰であっても知っている人間である。彼による教会論の確立によって、古代は終焉し、時代は中世へと遷るのである。
また、彼の生きた時代は帝国の終焉の時期でもあった。彼が生きたアフリカのヒッポとてその例外ではなく、ヴァンダルが移動をし続けて、激しい混乱をもたらしていたのである。あたかも黙示に記されたかのような混乱の中にも拘らず、教会の成員は今がまだ黙示のときでは無いと確信していた。なぜなら、「全世界に福音が述べ伝えられるまで」黙示の日は来るはずが無いからである。よって彼ら聖職者がなすべきことは唯一つ、この世の信徒を如何に繋ぎ続けるか、である。だが、そこには問題が有り、前述のドナティストから続く、極度の理想主義、それと対立する国家との対応であった。教会はこの問題に対して、その名『普遍』からは想像も出来ないような(そもそも普遍が意味するのはそういうことじゃないんだが)、柔軟な対応をする必要があったのである。この時代の要求に答えつつも、キリスト教としての組織と教義を大系的に作り上げる必要があったのだ。アウグスティヌスは正にそれを成し遂げた。最大の教父の名は、伊達じゃない。
教会とは本来、神の施設である。神の施設はイエスがパウロに『鍵』を託したことに始まり、その施設の第一の目的は『救済』である。故に、教会には明確なる秩序と教え(これらをオルドーという。キリスト教、ことカトリックを学ぶものにとって、カリスマとオルドーという二つの存在は非常に重要である)は絶対必須のものであった。この必要からして、司教や聖職者は人ではなく、神によって任命される。故に、彼らの司教権(宣教、秘蹟等々)には、現世的で偶然的な、人格はなんら、何一つ全く完全に意を為さない。
さて、ここで前述の秘蹟の説明と、ドナティストの論、及びそれについての教会の回答を思い出してほしい。アウグスティヌスによれば、ドナティストが異端である主因は、秘蹟効力と秘蹟を同一視した事によるものであるとされている。アウグスティヌスは秘蹟と秘蹟効力を明確に区別する(アウグスティヌスの論が極めて優れているのは、その区別によるものである)。例えば洗礼の場合である。ドナティストは、洗礼を授けたものに洗礼の主体があるとしたが、論争において洗礼は神(聖三位一体)によるものとされた。アウグスティヌスは更に、この洗礼という行為について、行為と効果を区別し、「神は恩寵による秘蹟を、悪人を介してさえ与える。だがしかし、恩寵そのものは、神みずからによるか、あるいはその聖者を通してしか与えられない」とした。すなわち、秘蹟行為そのものが有効であったとしても、その効果(恩寵)は、神の施設である教会にのみ生み出せるものである、と述べたのだ。これは仮に異端者が居たとしても、教会に一致した場合(すなわち改悛)、それはすなわち、正統への復帰を意味し、秘蹟がその効果を発揮する事ができるのである。逆に言えば、カトリック教会の外にある場合、それが例え『カトリック信仰のようなもの』であったとしても、秘蹟に効果はなく、救済は得られないのである。
さらにアウグスティヌスはこの教会について、それが可視的な、単純なものではないとしている。すなわち、教会とは神の恩寵に満たされた聖職者の共同体によるものであり、それら個々の集合としてのカトリック教会にこそ、恩寵はある。すなわち、アウグスティヌスにおいて主体となるのは常に教会なのである。
アウグスティヌスによって、ドナティスト異端の論は完全に退けられ、ドナティストは次第に聖職者個人、あるいは教会の俗権との妥協という『現世的ではない』問題以外にその論点を失うのである。
そしてアウグスティヌスによって確立された秘蹟論は、その後も長くカトリック教会の公式見解となるのである。
だがしかし、理論を現実に当てはめるのは、当然のことながら甚だ愚かしい行為である。現実から理論は生み出される。故に、この理論が新たな展開を迎えた時期を見る必要がある。それすなわち、中世における最重要問題、グレゴリウス改革である。
グレゴリウス改革は、すなわち、教会と世俗君主との間に起こった問題、叙任権闘争を含め、教会の聖性と絶対性をもたらすために行われた論争であった。結論から言えば、この改革は、ハインリヒのローリング土下座などを経て教会の勝利に終わる。しかし、同時にそれは教会の客観性を揺るがす大問題を抱えていた。
高校教科書や、一般見解においてグレゴリウス改革は、叙任権闘争に終始している。だが実際のところ、この改革は教会内部の改革でもあった。グレゴリウス改革前の教会は極めて、堕落していた。聖職者はその徳性を失いつつあり、そして、俗権の介入、すなわち世俗君主による聖職叙任は教会の腫瘍であった。そこでこの改革は起こる。改革に従事した教皇、こと、その中心人物であるグレゴリウス7世は教会の聖性の回復と、俗権の介入を徹底的に排除しようと試みる。その中で槍玉に挙げられたのがシモニアであった。
「シモニア」とは、聖職を金銭によって売買する行為である。
グレゴリウス改革はその論上において、目的を達成するためにある論理を持ち出す。それすなわち、ドナティスト異端の論である。簡単に言えば、「シモニア等、キリスト教において害悪とされる行為によって聖職者は直ちに排除せらるるべきである。なぜなら彼らの秘蹟には害悪があるのだから」ということである。あくまで簡単に言えば、だが。
さて、グレゴリウス改革ではドナティスト異端の再臨が見られるのだが、それ以前においてはどうだろう。
既に語ったように、教会は基本的にはアウグスティヌスによる客観論を貫く。だが一方で、その権力闘争(聖的な意味で)は時としてこの客観論を否定するのである。
ここで一つ、分りやすい例がある。769年、ローマにて公会議が開かれた。その議題は違法による教皇即位を果たしたコンスタンティヌスが叙階した20名の聖職者の処遇である。教会としては、違法によって即位した教皇の叙階である以上、その叙階の秘蹟は無効にしたいところだが、無効にした場合、明らかなアウグスティヌス論との対立であり、誤謬である。教会は岐路に立たされた。公会議には、当時まだ皇帝ではなかったカールの支配するフランク王国からの使節を交えて行われた。そして、公会議の決定は意外なものとなる。「20名の聖職者の叙階は、侵奪者コンスタンティヌスによるものである。故に、無効」。それが決定であった。そして同時に、叙階された20名の聖職者については、『あたかも彼らが叙階された事がなかったかのように』改めて正統なる教皇ステファヌス3世の叙階を受ける事となった。この決定はすなわち教会法において誤謬であり、異端である。その手続きに不備がなければ、「違法であったとしても有効」なのだ。更にこの決定が誤謬である理由は、コンスタンティヌスの行った洗礼を認めた、ということである。
これはすなわち客観的教会が、主観的秘蹟論の立場をとったという事である。また更に言えば、この当時、一流の神学者であってさえ、政治的対立の問題に関しては主観的秘蹟論の立場に立っているのである。
これらのような、教会論の退廃は、アウグスティヌスから僅かな期間の内に起こった。そして、それはすなわち、現実の教会はいまだその教会論を安定させる事が出来て居なかったのである。とはいえ、これがグレゴリウス改革につながるとは言いがたいのかもしれない。事実、こういった主観的な論が述べられた後には必ず客観論への修正が試みられているからである。そしてまた、一見して主観主義の立場をとっていたとしても、それの真意が必ずしも主観的秘蹟論に踏み込んだもので無い場合があることも理解しておかねばならず、それら個別のケースについては、私はその説明を為すだけの力量を持っていない。関連商品から『正統と異端』という本を買う事をお勧めする。
ともかく、グレゴリウス改革において示されたドナティスト異端の復活は、教会がアウグスティヌスによる教会論の確立にも拘らず、極めて不安定な時期にあった時から常に継承されてきたものであったのである。故にこそ、グレゴリウス改革はその論争に一定の終止符―終止符とはすなわちインノケンティウス3世のフランチェスコとの出会いといってよいだろう―を打つに至る重大な改革であったのだ。なぜなら、グレゴリウス改革が真に終わりを迎えるのはカノッサでの一件の時ではなく、インノケンティウス3世による改革の法制化のときなのだから。
グレゴリウス改革は既に幾度も述べてきたように、「聖と俗との間にある相応しい秩序」を教会の主導によって規定する一大改革であった。この改革は1048年に教皇座に座ったレオ9世より始まる。
そもそも何故改革が必要になったかといえば、それは教会の退廃によるものなのだが、実際のところ退廃というものは教会独りの存在によってのみ起こったとはいえない。教皇権が相応しい権威を使用するには、どうしても教皇権に対して皇帝権という、ある種の対立者が必要になる。ローマ帝国崩壊はいまだ未成熟の西ヨーロッパ社会を大混乱に陥れるが、その中で台頭したのがフランク王国のカールであった。カールは教会によってローマ皇帝としての地位を授けられるが、実のところ、ヨーロッパ社会はいまだカールを皇帝として頂くだけの条件が整っていない ―だがそれゆえにカールは西ヨーロッパ統一を可能としたのだが― ものであった。また同時にカールによる帝国は社会が熟しきらない前であった事から、その内部に既に崩壊の因子を多分に含んでいるものであった。実際帝国はすぐに崩壊する。とはいえ、熟しきらないとは言っても、ヨーロッパは発展途上にあり、その内部では農業技術の改善が力強く推し進められていたし、混乱と分裂は極限的分裂の末にある、地方小権力の確立が進んでいくスタートラインであった。この地方小権力が再び統合を始めた時、封建的編成がヨーロッパにもたらされ、封建社会の基礎が固められていったのである。
教会の退廃期とは、すなわちこの混乱の時代において起こったものであった。教会が混乱期にその保護者としてカールを選んだように、各地方の教会や修道院などは、彼らの身近にある権力との結びつきを求める。無論、権力側としてはタダで結びつく事はなく、保護者としての教会の支配権を要求し、そしてそれが実際に起こるのである。それはすなわち、教会の主人となるか、あるいは司教や修道院長の任命権の掌握であった。これこそシモニアの原因であり、同時に教会の退廃の原因であった。
かくして退廃と成長が同時進行的に行われ、その到達点に962年のオットー戴冠が存在するのである。
オットー戴冠はすなわちヨーロッパの混乱期の到達点であり、新たな出発点であった。そして同時に教会のそれでも有り、オットー以降歴代皇帝は教会改革を非常に熱心に行う。しかし、ローマ教皇は依然その力をヨーロッパ全域に示す事はなく、ローマ周辺の貴族の傀儡として政治的闘争の道具であった。だがそれも1130年代にようやく終わりを迎える事となる。それすなわち、皇帝ハインリヒ3世の登場である。
ハインリヒは幾つかの戦争と臣従をうけて皇帝権を確立し、強固なものとした。そして同時に宗教的情熱を如何なく発揮し前述した状況のローマに介入、シモニアの教皇3名を強制的に罷免し、クレメンス2世を新たに即位させ、続けて2名を教皇とする。その2人目こそ、改革の最初の教皇、レオ9世であった。
かくして教皇権の退廃は皇帝権によって終止符が打たれた。しかし、それは同時に皇帝権に対しての教皇権の反逆をも意味する。本来神にのみ仕え、万人の救済にこそその主眼を置く教皇権は、確立されたからにはその使命を果たさねばならなくなるのである。皇帝権に確立されたとて、教皇権、そして教会とは神と人とを繋ぐ組織なのだから。
レオはハインリヒの忠実な臣下であると同時に、極めて高いレベルのカリスマの持ち主であった。そして、ハインリヒも彼を非常に深く信頼しており、故にこそ教皇に指名した。我々構成の人間にとっては皇帝権と教皇権が、完全に対立しあう事が明白あり、何故その様な事をしたのか、皇帝に対して小一時間問い詰めたいところなのだが、この二人においては、それらの権力は矛盾することなく互いに両立できると固く信じていたようである。また、それと同時に彼らにはペトルス=ダミアニなど有能な人物が存在し、教皇権と皇帝権の調停を行っていたのである。
話を戻し、聖職売買の追放である。レオ9世はすぐさま何人かのシモニストを罷免した。ついで罷免された彼らが叙階した聖職者も罷免しようとしたが、これは流石に大反対に会い、断念した。これはアウグスティヌスの云々において述べた聖職者の叙階の否定による混乱を避けるために行われた反対であった。何故このような正統教義否定、すなわち異端の論を取ろうとしたかは、それすなわち、正統教義が確信を持って伝えられていなかったゆえであり、この騒動の後も同じような行動を各地で取り続けるのである。
レオ9世他、数々の改革者の名誉のために言っておくと、なぜ同じような行動―仮にそれが正統教義から見て異端あったにしても―をとり続けたのかといえば、それは当時の教会がそれほどシモニストで溢れ、彼らのカリスマが、純粋な思いがそれを許せなかったからである。彼らの純粋な思い、神の教会としての思いは、その純粋さゆえにドナティストの論へと行き着き、そして改革の決定的な自己矛盾を生むのである。主観的なものであるとは分っているが、それは余りにも、あまりにも皮肉な結果である。
グレゴリウス7世は言わずもがな、グレゴリウス改革の中心的人物であった。彼によって教皇権と皇帝権との対立は終結し、教皇権の優位は紛れも無いものとなった。とはいえ、グレゴリウス7世こそ、これまで長々と、アホみたいに書き続けてきた客観的教会論、秘蹟論が大きく揺らぎ、混乱する事となる、その中心人物である。
彼の秘蹟論は初め割と緩やかなものであり、どちらかといえばその発言も『倫理的にダメ』というものにとどまり続ける。しかし、この態度はある事件より一変する。1077年1月、イタリア北部の小さい村カノッサにて、時のローマ皇帝ハインリヒ4世はクソみたいに寒い中、裸足でジャンピング土下座とローリング土下座と土下寝を3日間行い、対にその破門を解かれる。所謂カノッサの屈辱、カノッサ事件である。
翌年の1078年には、グレゴリウス7世の立場は明確なものとなる。彼の論は史料的に失われたところが多いのだが、残っている史料を繋ぎ合わせ、簡潔に述べるとすれば、以下のようになる。
「シモニストの叙階には、『効果が』ない。故に、再度叙階をするのではなく、正当なる叙階を行う」
これはすなわち秘蹟の重ね掛けではなく、秘蹟そのものを行っているに過ぎない、ということである。すなわち完全にシモニストを認めない発言をするのである。聖職者の役職としてではなく、あくまでシモニアを行った時点で罪人になのだから、彼らは聖職者ですらないのである。言ってみれば、「お前精子からやり直せや、っていうか、あれ。他の精子に譲ってやれよ。お前人間として生まれてきた時点で間違ってんだよカス」ということである。
だがしかし、これはアウグスティヌスによって確立されたはずの客観的教会と完全にぶつかる。なぜなら、前述したように、『その儀式が正統であれば、その秘蹟の行為自体は正統性を持つ』ものなのだから。また同時に彼は、「ローマ教会に一致しないものは、疑いなく異端として断罪される」と述べ、教皇権の絶対性を確かなものとしていくのである。
しかし、ここで揺らいだ秘蹟論および客観主義は、彼のシンクタンクとして働いたものたちによって再びもたらされるのである。さらに、彼らはその論争に答えを打つべく徹底的な教義の見直しを行い、対にアウグスティヌスによるドナティスト論の論破に用いた論理を『再発見』する。歴史を通してみた場合、グレゴリウス7世の行動が異端的であることは紛れも無い事実であるが、実際のところ、アウグスティヌスの論は継承されてきたとは言いがたいのである。この『再発見』にこそ、グレゴリウス改革の重要性が宿る。
グレゴリウス7世が教会の絶対性を確立した後死亡すると、教皇を一代置いてウルバヌス2世が即位する。彼は明確な改革派であったと同時に、アウグスティヌス主義を強く信奉する人物でもあった。初めのうち、彼は対立する皇帝ハインリヒ4世によって擁立された対抗教皇との争いに悩むが、ハインリヒのムスコ(生物学上の意味で)のコンラートがハインリヒを裏切った事で一定の決着を見る。そして1095年、ピアチェンツァにて公会議を開き、幾つかの決定を為す。
その決定は、纏めると以下のようになる。
1、シモニアは禁止
2、シモニストによる『シモニアなしの』、そして、被叙階者(シモニストによって叙階される人間)が叙階者の不正事実を知らない限りにおいては、その叙階は有効
3、2の条件に適うが、皇帝派であった人間(この場合、離教者とされる)は、その生活と知識がカトリック教会に適うものであるならば、しかるべき手続きを踏んだ上ではあるが、教会に受け入れられる
1は説明不要であるからいいとして、2は、すなわちグレゴリウス主義からの脱却である。グレゴリウス7世において効果なし、とされた叙階の秘蹟は有効となり、条件付ではあるが受け入れを可能とすることで、教会の混乱を防ぐことになったのである。そして3は政治的混乱を収めるものであった。ここにおいて皇帝派の聖職者達は投降のチャンスを与えられ、そして投降すればグレゴリウスによって定められた「教会に不一致の者は、異端」という論からの離脱が可能になったのである。また更に、3の決定が偉大であるのは、改革の始まり以来、俗人の介入した叙階=シモニアという解釈に弾力を持たせたということである。これによって、『指名は俗人の権力者が行うが、その執行は聖職者によって行われる』という、後のウォルムス協約にも繋がる俗人の司教候補者選定の合法化が為された。これは、当時の封建社会において極めて重要なものであり、この決定によって社会混乱を未然に防ぐ事が可能となるのである。すなわち、社会構造を維持するために教会は一種の妥協を ―私はこの妥協を素晴らしいものだと思う― 行うのである。
かくして改革は一応の収束を見る。この後も、幾つかの泥沼のような戦いはあるものの、偉大な改革の後始末に過ぎないものであった。ウルバヌスの死を持って、偉大な教皇たちが『聖とは何か?』を激しく追及し、闘争した時代は終わったのである。主観主義と客観主義という互いに相容れないものの、互いに必要な、二つの矛盾した問題は客観主義に落ち着く形によって収束したのである。そして次第に論争は極めて神学的な、細かな、そして人間性の無い―だがそれら一つ一つは極めて偉大な―研究へと向かい、必ずしも教皇権や客観論について論じるものとはいえなくなるのである。
最後に、アウグスティヌスの論を非常に簡潔に述べた言葉を載せる。以下の言葉は、ウルバヌス2世の所属していたクリュニー修道会の第二代院長、オドーによる洗礼に関する言葉である。
「聖徒による洗礼が、罪人によるそれよりも効果があるとはいえない。なぜなら、真に洗礼するのはキリストだけなのだから」
グレゴリウス改革によって聖は聖、俗は俗という構造は完成された。だが、どうしても述べなければならない存在が在る。グレゴリウス改革の嵐の中に生きた平信徒たちである。
彼らは高尚な神学的問題や、政治的闘争など知らない。ただキリスト教信仰を行う人々である。だが、故にこそ、その純粋無垢な信仰はグレゴリウス改革の矛盾点を我々の前に抉り出す。その純粋無垢な信仰は、間違いではないが、異端となる。その純粋無垢な信仰は、偉大なる聖人を生み出す。
1210年、時の教皇インノケンティウス3世はある人物と面会していた。この当時の教皇といえば、絶対的権力を持ち、地上のありとあらゆる問題に介入する事が可能であるほどの、犯しがたい人物である。教皇の周りには小奇麗な服装の枢機卿たちが侍り、教皇自身も平民には夢にも許されないような豪華な服を着ている。
だが、インノケンティウスの前に居るこの男のなんとみすぼらしい格好だろうか。麻布か何かのボロ雑巾のような継ぎ接ぎだらけの服を纏い、腰紐は荒縄で結ぶのみ。足元に目を移せば、どうも裸足のままで泥まみれである。そして、何よりも臭い。なるほど見てくれどおりその服は何時変えたのかも分らない。
しかしインノケンティウスは彼の歌うような耳に心地よい声に惹きつけられて止まない。なるほど彼の話はこうだ。「自分達はキリストに倣って生きるもの達で、人々に福音を述べ伝えたい。そこで教皇にその認可をもらいたいのだ」、と。そして彼は同時に自分達の規則を提示する。その規則はたったの3つ。一つは「汝、完全で有りたくば、家に帰って持ち物を売り払い、それを貧民に施した後、私に従え」。二つは「金、銀、または金銭を持たず、2枚の下着も、靴も杖も2つ持ってはならない」。三つは「汝もし私に従うのであれば、己を捨て、己の十字架をとってから私に従え」。この3つ。たったの3つである。教皇は彼らに認可を与えるかどうか諮詢する。とりあえずその日は彼らを帰し、一晩じっくりと考える事にした。
その夜インノケンティウスは夢を見る。傾いた教会が見える。だが、どうだろう、それを支えている人物がいるでは無いか。よくよくその人物の顔を見れば、どうやら先ほど会った、あのみすぼらしい男だ。彼の名前はなんと言ったか。そう、「フランス的な」という意味だった。傾いた教会、それを支える男。夢から覚めたインノケンティウスは最早疑う事はなかった。
翌朝、インノケンティウスは件の男を呼び寄せ、すぐさま口頭の認可を与えた。「兄弟たちよ、主とともに行け。そして主が汝らに霊感を与えられるのと同じように、人々に悔悛の教えを説け。だが幸いにして主の恩寵を得て仲間を増やした時には、また私のところにくるといい。そのときには、今よりも沢山の事を許し、必ずやもっと重大な任務を与えよう」。この言葉を聴いた男の顔は明るく輝き、言われたように教会をでて人々に福音を述べ伝える旅に向かった。
彼の名はジョヴァンニ。だが、彼を呼ぶ時、人々は違う名を言う。「フランチェスコ」と。
グレゴリウス改革は正に嵐であった。政治的闘争だけでなく、文化、社会、宗教、全てを巻き込んでヨーロッパに吹き荒れた嵐である。その中で人々はある種の変化をする。それまで教会の儀礼として形だけの信仰が行われてきたキリスト教は、次第に人々の内面にまで影響を及ぼす。キリスト教がヨーロッパ社会に真に浸透したのは、実のところ12世紀頃になってからなのである。故にその12世紀には多くの宗教的運動が起こる。十字軍運動や、聖遺物ブーム、巡礼の気風や、清貧運動、使徒的生活がそれである。
さて、そういったキリスト教の行き渡りであるが、必ずしもそれがカトリック的正統信仰であたとは言いがたい。改革の嵐の中でそのカリスマを発露させた平信徒は、ただ純粋に『信仰』するのみである。ここまで語ってきたような高度に神学化された信仰形態などというものは、対岸の火事のごときものである。
だが教会とて、そういった『無秩序な信仰』は認める事はできない。彼らがただ信仰しているその行為は、場合によっては教会の鎖から解き放たれ、教会の外へと進展してしまう事になりかねないものであったからである。
12世紀の民衆異端運動は正にそれであった。中でもカタリ派とヴァルド派の二つの異端は中世二大異端と呼ばれる、極めて大きなものであったのだ。カタリ派は既に別項として存在しているゆえ、説明は省くが、問題はヴァルド派である。
ヴァルド派はフランスリヨンの高利貸しペトルス・ヴァルデスの回心とその後に形成された集団である。彼らは聖書、こと福音書の遵守をその目標に掲げ、人々に福音を延べ伝える活動を行った。それは正に改革によって生み出された清貧運動や、使徒的生活の民衆レベルでの活動であった。だが、彼らは福音を述べ伝えると同時に、世俗化した聖職者を厳しく批判する。それによってそれまで活動の中心であったリヨンの教会と衝突、大司教から破門されるに至る。
それでも彼らは諦めず、当時の教皇アレクサンデル3世の下に向かい、説教認可を求めた。アレクサンデル3世は彼らの思いに深く感動し、彼らを抱きしめた。だが、一方で彼らの求め、説教認可を与える事はなかった。なぜならその当時、説教とは司教や、それに伴う司祭などの領野であり、平信徒である彼らには、例えそれが聖書に基づいたものであったとしても、認めることが出来るものではなかったからである。また更に言えば、改革の趣旨、「聖は聖、俗は俗」によって分化されるべき存在が、聖に踏み込む事は許されなかったのである。
その決定の後、最初のうち彼らはそれに従った。しかし、最終的に彼らは活動を再開し、1184年にヴェローナ教令にて異端リストに名を連ねる事となった。異端となった彼らであるが、それによって活動をやめる事はなく、ヴァルド派はヨーロッパ中に広がるにいたる。
話が次第にずれて行きつつあるので客観性と主観性の問題に戻せば、彼らの信仰は極めて、主観的なものである。もとより、ヴァルデスのカリスマによって創始され、民衆のカリスマと協和して彼らは拡大していったのであるから、それが主観主義に終始するのは当然であった。
すなわち、この例から見ることが出来るのは、民衆にとっての信仰とは、あくまで主観によるものであったという事である。主観ゆえに、客観とぶつかる。これは当然の事であった。だが、教会とてそういった主観を潰す事はできない。本来人を救済へと導く組織であるのだから当然といえば当然なのだが。そして故にこそ、教会はその対応に頭を悩ます事になる。12世紀から13世紀という、教会の絶対権威の時代は正に、実のところ教会の危機の時代でもあったのである。
かくて問題を抱えた時代に即位したインノケンティウスであったが、彼はまず改革の法制化を行う。これは客観的教会を完全な形で作り上げ、確立させるものであった。さらに、異端運動に対して徹底的な弾圧を行う。ことカタリ派に対しては、十字軍を召集して完全に撲滅させるに至るのであるが、一つ述べておくべきは、彼のその強固な姿勢とは裏腹の、柔軟な対応である。彼は異端に対して、カトリック信仰に復帰する事を条件に、すなわち教会の内部に組み込まれることを条件として異端を正統へと引き戻すのである。それでも反抗し続けるならば、初めて弾圧する。これが彼のやり方であった。
とはいえ、それによって問題が本質的に解決したとはいえない。民衆にとって、信仰とは主観的なものであり続けたのだから。
其処に、一人の男が現れる。前述の男、フランチェスコである。前述したようにフランチェスコはインノケンティウスによって口頭の認可を受けた。だが、果たしてインノケンティウスはフランチェスコが後にどれほどの人物になるか、予見していたかといえば、それはおそらく、首をひねるものであろう。
ここでフランチェスコについて語っておくべきであろう。彼はイタリアのアシジという町に生を受けた。洗礼名はジョヴァンニであったが、父の意向によってフランチェスコと呼ばれるようになる。自由奔放な青年であった彼は、ひどく浪費家であり、もしそのときのフランチェスコを見たとしても、彼が後に為す偉大な業績を予見する事は不可能であろう。それほどに彼は、自由人であったのだ。だが、同時にその二面性を持っており、ひどく信仰に熱い男(篤い、ではなく、熱いに近い。松岡のように、熱い)であった。おそらく20代の前半、彼は神の言葉を聞き、回心を決意した。アシジの聖堂の前の広場にて、彼は世を捨てることを高らかに宣言し、両親から与えられていた一切の物質的なものを返還し、裸で教会の中に飛び込んでいった。その後幾つかの段階を踏んで、彼は対にインノケンティウス3世と出会う。そして、前述したような会見によって、彼は活動の口頭認可を得るのである。
その後、いかにしてフランチェスコがその名を全世界にとどろかせ、今なお、人々に最も愛される聖人になったかは、容易に知ることが出来る。しかしながら、何故彼が正統に迎え入れられたのか、それはいまだ研究者の注目も的である。それほどに彼の認可とは、中世における一大事件であったのだ。
ただ、言えることは、教会はフランチェスコという存在を教会のうちに取り込む事で、平信徒との繋がりを回復した、ということである。たった一人の男によって?と思うかもしれないが、そういう人は、フランチェスコについて海外の人に聞いてみるといい。おそらく、返ってくる返答は「彼は素晴らしい人だ」というものとなろう。
とはいえ、いまだ当時の教会内部にはフランチェスコの正統容認を快く思っていない人々が居たのも事実であるが、それはフランチェスコが行った業績の内に次第に消えていく事となるのである。ここに、客観主義と主観主義の一種の妥協点に教会は至ったのである。
ここまでつらつらとアホみたいに長々語ってきた教会の客観論であるが、実のところフランチェスコの登場の後も続く。客観主義と主観主義とは常に相容れない存在なのだから。だが、だからこそ歴史は展開され続けてきた。とてもダイナミックに。
教会とは、幾多の論争と、闘争によって、今なおその完成をみずから望み、模索し続ける組織で有り続ける。それこそ正に、客観的教会論の現在性なのである。
はい、というわけで長々と御付き合いいただきありがとうございました。僕としましては、いまだ未完成の部分が多いです。特に12世紀の民衆異端運動や、フランチェスコの事とか。ただ、こいつらを語るってなるととんでもない状況になり、さらに『客観と主観』っていうものがアヤフヤになりかねなかったので割愛させていただきました。そのため説明不足の部分、どうしてそうなるの?っていう部分が多々有ります。その辺は、許してちょ。
とはいっても、この客観主義と主観主義って言うのは、教会にとってもそうですが、常に我々人間一般とともに有り続ける問題だと思うのです。例えば法律。法律なんかは、アレ完全に客観主義に基づくものです。でも、実際にその法が執行されるには、解釈が伴います。ってなると、解釈って主観主義に頼らざるを得ないんですね。これを法の抗事実性という、って友人が言ってた。この妥協って言うのが、実際、なかなか難しいものなのです。だからこそ、教会の客観論は色々な面白い歴史を含んでくるんです。
そんでもって、もう一つ。この記事では如何に客観主義が組織にとって大切か、って言うのも有ります。先日某国の某党が政権交代を成し遂げました。これの良し悪しについて語る気は毛頭有りません。んなもん個人の主観です。とはいえ、この政権交代によって某党は教会と同じように、客観主義への切り替えが必要になるのはまず間違いないと思います。それが果たして、某党を支持した某国の国民にとって、どういうものになるかは、それこそ分りませんが、ただいえるのは、長続きさせるには、やはり客観主義に移行しなきゃいけない。それが例え、裏切りのように感じられるものであったとしても。某党の某党首は、僕から見るとかなり主観的です。主観主義が悪いとは言いません。しかし、それを如何にシフトするか、というのを楽しみにしています。
で、後これは僕の恨み言なのかもしれませんが、某百科事典なんかでは、「カトリックは自分達こそ正統という意識が強い」とか、かかれてます。もう改定されたかもしれませんが。でも実際歴史を見ると、んなこたぁ当然なのです。自分達こそ正統、っていう意識を持たない組織があるのだとしたら、逆に聞きたい。小一時間問い詰めたい。それくらい、組織って言うのは自分達こそ!っていうもんなのです。何処だってそうです。ただ、教会に言えるのは、教会は間違っちゃいけないってことなんです。間違ったらどうなるか、あるいは、間違っていたと認めたらどうなるかなんて、それは分りきった結果になる。そういう態度が、もしかしたら「教会の頑固さ」っていう、一面的な見方に繋がっているのかもしれません。でも、その中には多くの妥協や柔軟性があったからこそなんだ、って言うのを、ぜひ知っておいてほしい、と思います。
しっかし、分りにくい記事だなぁ、と自分でも思います。その事に関しては、自分で自分を問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。目玉くりぬいて頭蓋骨でファックしてやりたい。んでもって軍曹殿の妹をファックする権利を得たい。そんな事はさておき、繰り返しになりますが、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。一応、これにて終了とさせていただこうと思っております。ではまた。
掲示板
21 平和島静男
2013/09/25(水) 02:48:41 ID: nZz7xnO4pr
22 ななしのよっしん
2019/08/04(日) 14:38:28 ID: vxyDp6iH6A
まあ長々と力を入れてるのは凄いね
教会に対する批判でよく使われる「神だなんだ大言壮語抜かしといてメンツやら妥協やらテメーの都合やらでコロコロ都合よく言い訳変えやがってこのスカポンタンめが!」っていう批判は結局そのまま的を得た指摘でもあるのね
23 ななしのよっしん
2020/08/14(金) 21:18:41 ID: ruLejDZym6
戯言の部分で法律が主観に頼らざるを得ないことを「法の抗事実性」というと書かれているが、ググってもそれらしいものは見つからなかった。
抗事実性とは聞きなれない言葉だが、どうも反実仮想の異訳らしい。
https://
一応Wikipediaの法解釈#立法者意思説と法律意思説
に同様の問題が提起されている。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/14(土) 02:00
最終更新:2024/12/14(土) 02:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。