コンスタンティヌス / インペラトル・カエサル・フラウィウス・コンスタンティヌス・ピウス・フェリクス・インウィクトゥス・アウグストゥス(272~337)とは、ローマ皇帝である。
なお、彼をもってローマではなくギリシア的性格の帝国に変容したという立場の人物からはコンスタンティノスと書かれる。
ディオクレティアヌスのテトラルキアを経て、新たなる秩序を確立した人物。ただし、キリスト教を公認したがために古代末期から中世にかけて顕彰されすぎてしまい、実態がよくわからないことになった人物でもある。
父・コンスタンティウスはディオクレティアヌスから西の正帝に任じられたマクシミアヌスの養子である。そのためコンスタンティウスは副帝に任じられ、ガリア地方でコンスタンティヌスも過ごした。
ところが、コンスタンティウスが正帝に昇格した際、コンスタンティヌスは副帝に任じられる等がなかった。これに不満を抱き、父の死後、東の正帝ガレリウスに自身を認めさせようとしたのである。
これと全く同じ立場にあったのが、マクシミアヌスの息子・マクセンティウスである。彼もまたコンスタンティヌス同様不満から立ち上がり、皇帝を宣言した。かくして、皇帝の血筋にある二人の自称皇帝が戦い始めたのである。
歩み寄りの政策も全く功を奏さず、312年についに両者は決戦に至った。この戦いでミルウィウス橋で得たお告げで、ラバルムを飾り付けたコンスタンティヌスが勝利したとされる。マクセンティウスに連なる血脈は徹底的に消され、コンスタンティヌスが皇帝になったのである。
コンスタンティヌスは西方の皇帝になると、東方のリキニウスと会談して同盟を結んだ。加えてここで行われたのがキリスト教を筆頭にしたすべての宗教を寛容すると公認した、ミラノ勅令である。とはいえ、この時コンスタンティヌスにとってより重要だったのが、この会談中にリキニウスにマクシミヌス・ダイアが蜂起したことであった。
リキニウスはマクシミヌス・ダイアと戦うために会談から引き揚げ、これを打ち破った。ところが314年にコンスタンティヌスとリキニウスとの戦いが始まる。
いったんは和睦した両者であったが、リキニウスは320年にミラノ勅令を破り、キリスト教を弾圧した。異端崇敬派のゴート人に支持されたリキニウスに対し、コンスタンティヌスのもとにはフランク人が集まったとされる。324年に劣勢を押し返し、コンスタンティヌスが勝利。325年にリキニウスが処刑されると、コンスタンティヌスが唯一の皇帝となったのだった。
コンスタンティヌスが内乱を打ち破ってもなお、ササン朝との戦いはなおも続いていた。ここでコンスタンティヌスに建造されたのが、現在のイスタンブールであるコンスタンティノープルとされている。キリスト教を公認したコンスタンティヌスは聖遺物の収集を始め、これを集めることでキリスト教の中心を確立しようとしたが、イェルサレム、ローマ、アレクサンドリアなどの古来以来の中心地も存続されていく、
コンスタンティヌスはニケーア公会議で教会の統一を図ったが、五本山制という結論に至った結果、中世を通した東西対立が続いていく。また、彼の手によってローマ古来の神々は凋落し、ユリアヌスという例外を除いてはこの趨勢に逆らうことはなかった。
コンスタンティヌスがこうしたキリスト教への手厚い寛容さを示したのは実利も大きかったとされる。しかし、結果として東方偏重が進んだために、ローマに留まろうとした抵抗から、東西への分割が進んだ。コンスタンティヌスの死後、西方の帝国が存続を目指す動きは結果的に失敗し、東方のみが性格を変容させつつ、帝国として存続していったのである。
ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスは死の床で洗礼を受けたという。彼の死後の混乱は知らず、大帝はかくして亡くなった。
掲示板
1 ななしのよっしん
2021/07/26(月) 10:44:03 ID: YByuot2SWX
現代に至る大きな混沌を生み出した男とも言える
2 ななしのよっしん
2021/09/06(月) 09:22:40 ID: JPOfGmCF9l
コンスタンティヌス大帝はセルビアのニシュ出身
この時代はバルカン半島全部キリスト教圏
よって・・・・・
コ ソ ボ は セ ル ビ ア
3 ななしのよっしん
2024/11/28(木) 18:54:19 ID: bitixlwrEe
義父が起こした暗殺未遂事件をきっかけに疑心暗鬼になったりすることが増えたかも知れないかな。
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最終更新:2024/12/14(土) 05:00
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