中世、未だ宗教の力は根強く権力と絡む時代、各領邦の君主と教会は叙任権闘争をしていた。叙任権とは何か、それは、教会のもつ司教などの地位への任命権である。この時代、教会も領地を持ち、税を取り、財産を持っていたので、此れを巡って教会(ローマ教皇)と各地の君主が対立したのである。「教会とて、我らの領内にあるのだからその任命権は君主に属す」対「教会はその教えを広めるものであり、その地位はローマ教会によって決す」と。
中世ヨーロッパ最強の君主、神聖ローマ帝国皇帝もその例に漏れず教皇と対立していた。というより、神聖ローマ帝国という国の成り立ちや構造からこの国が最もこの闘争に絡んでいた。
当時の皇帝、ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世が止めるのも聞かずに領内の司教座に子飼いの司祭を次々おき、これに切れた教皇が破門を宣告した。
すると、帝国内の有力諸侯は、良い機会とばかりに、ハインリヒ4世に反旗を翻した。更にとどめと言わんばかりに破門が解かれない場合のための、新皇帝選出の会議も用意された。一度目の会議では、誰を新皇帝にするかが問題となって、新皇帝は決まらなかったが、ハインリヒ4世が破門を解かれない場合の王位剥奪だけは決定されていた。また、次の会議には、権威付けのために教皇が呼ばれており、教皇が到着する前にハインリヒ4世は事を決着させなければならくなった。当時(というかずっと)、神聖ローマ帝国の皇帝権は弱く、ハインリヒ4世は一気に王位剥奪の窮地に追い詰められることとなる。
此れを打開するため、ハインリヒ4世は、会議に向かう途中の教皇がいる北イタリアのカノッサに向かい、1077年1月25日歴史は動く。
カノッサ城門前で武器を全ておき、修道士姿に着替えたハインリヒ4世は三日三晩にわたり断食と祈りを続け、ついに教皇から破門を解く言質を取った。
この事件は教皇の権威が皇帝の権力を上回った最たる例としてよく教科書に取り上げられている。
なお、この後の話は教科書には余り取り上げられていないが、破門を解かれたハインリヒ4世はドイツに戻ると反対派をたたきつぶした後、ローマを包囲し対立教皇を担ぎ上げた。教皇グレゴリウス7世は辛くも包囲を逃れたが、その後ローマには戻れず逃亡中のサレルノで病死。あわれ。
教皇グレゴリウス7世は、カノッサにおいて政治的には全く破門を解く必要はなかったが、許しを請う者をそのままに出来ないという良心を持っていた。また、彼が生涯を掛けて、時には身に危険が及びながらも、ハインリヒ4世に対峙したのは教会の叙任権を取り戻した上で、世俗権力と分かちがたく結びついていた教会を、俗権と切り離して教会を建て直そうという崇高な目的のためであった。このような人も掛かる目に遭うのであった。全くあわれというしかない。
1990年4月9日から1991年3月25日の間にフジテレビで放送されていた深夜番組である。全42回(+特別編2回)
現代日本の文化を、真面目な教育番組と思わせつつ、ユーモアを混ぜながら馬鹿らしく解説する番組であるが、実際の世界史または日本史の出来事になぞらえて解説していくので、視聴者側にある程度の教養を要求される。
バブル期にホイチョイプロダクションが企画した番組。「マーケティング天国」「カノッサの屈辱」「TVブックメーカー」の3部作のうちの2番目。3作目の「TVブックメーカー」では、通貨の単位が「カノッサ」になっていた。
番組終了後は池袋西武百貨店でカノッサの屈辱展を開催し、番組内で製作・使用したグッズをオークションにかけて販売した。売り上げはきっとスタッフの宴会に使われたに違いない。
なお、2000年大晦日、2007年2月、2008年10月、2009年12月と4度ほど特番として復活している。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/14(土) 05:00
最終更新:2024/12/14(土) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。