塹壕とは、戦争において歩兵や車両を砲弾や銃弾から守るために作られる穴または溝。タコツボまたは散兵壕とも。
概要
戦闘陣地の一種。特に、火砲の大量生産と大量導入が図られた第一次世界大戦以降の戦争においては欠かすことの出来ない施設または戦術となっている。現代戦において、防御と言えば古来の城や要塞ではなく塹壕を意味する。
歴史
攻城塹壕の登場
古来より、兵の身体を隠せば白兵戦の前に行われる弓合戦で有利に働くことは知られていた。また、騎馬突撃に対しても堀の存在は有効であり、古代ローマ軍も野戦においても状況が許す限りではあるが掘っていた。
大々的に塹壕の掘削が認められた戦いは627年のムハンマド率いるメディナ軍とクライシュ族率いるメッカ軍の戦いで、防御にまわったメディナ軍が塹壕を利用してメッカ軍の騎兵突撃を防ぎ勝利した(ハンダクの戦い)。
防御戦術に用いると言う非常に先進的な戦法であったが、この戦いは例外的であり、永久築城や歩兵が装備する盾、騎兵を脅かすものではなかった。
むしろ、現代に続く塹壕は攻撃における必要性から生まれた。16世紀に入るとそれまでは信頼性がおけなかった大砲が実用の域に達し、城に備え付けられるようになり、破城槌や攻城櫓など既存の大型攻城兵器を寄せ付けなくなった。
また、個人が携帯する銃火器も登場し、直線的に降り注ぐ火線は火砲と合わせて盾でスクラムを組む攻城側の兵の動きを著しく乱れさせた。距離や射角によっては盾そのものを打ち抜くことも出来、貫通を防ぐための盾の強化は重量増につながるため余計に攻撃効率を低下させた。
そこで攻城側はジグザグに穴を掘り進むことで兵を保護しつつ城壁に接近し、最後に爆薬で爆破すると言う戦術を編み出す(攻城塹壕)。
例えば、火縄銃の配備が著しかった日本の戦国期において、武田家は百足衆と呼ばれた山師出身の工兵部隊を重用していたし、逆に彦根城のようにあえて掘削工事がしにくい湿地帯に城を築くことで攻城塹壕を防ぐ城も築かれた。大阪の陣でも徳川方が攻城塹壕の掘削を試みている。
塹壕戦の開始
一方、野戦については銃火器登場後も塹壕を積極的に掘る思想は芽生えなかった。当時普及したのはライフリングがされていない前装式マスケット銃であり、命中率は低く装填にも時間がかかり連射は見込めなかった。城兵と違い、野戦軍(戦列歩兵)では攻撃・防御共に限界があり、「隊列を組んで射撃を行う」以上の戦術は望めなかった。
この状況が一変するのは19世紀中盤であった。長射程の榴散弾の普及が始まり、陣形形成中のみならず行進を始める前から兵は火砲の射程に捉えられ始めた。砲の射程調整技術も発達し、接近戦における歩兵・騎兵の砲兵に対する有利も霞んだ。1853年から開始されたクリミア戦争では、巧妙に配置されたロシア軍の砲兵陣地に突撃を行ったイギリス軍槍騎兵が陣地到達前に全滅する「バラクラーバの突撃」事件が起き、それまでの三兵戦術(歩兵・砲兵・騎兵)の一角を崩し始めた。この戦争では機動戦は成り立たなくなり、ひたすら塹壕を掘って敵要塞への包囲戦に切り替えるほかない戦況が既に生じていた。
続く1861年から始まった南北戦争でも、野砲と長射程の小銃の前に多数の犠牲者を出し、これを防ぐために本格的な塹壕が各所で掘削された。戦争末期のリッチモンド・ピータースバーグ方面戦線では九ヵ月、約48kmにも及ぶ塹壕で両軍がにらみ合い、内戦の長期化に一役買った。
1864年の第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争、1866年の普墺戦争では、後装式ボトルアクションライフル銃であるドライゼ銃を持つプロイセン軍がデンマーク軍とオーストリア軍を圧倒。これ以降、歩兵は堂々と歩きながら撃つのではなく、地べたをはいずりながら撃つと言う今日的なイメージへと変貌を遂げた。
1870年の普仏戦争では電信や鉄道を大いに利用したプロイセン軍がフランス軍に勝利を収めた。この戦争はフランスの内政事情の混乱もあり短期間で終了し、クリミア戦争や南北戦争のような塹壕戦には発展しなかったが、隊列を組む形で戦う戦列歩兵は後装式ライフル銃の装備が前提化(対称化)したことにより無力なものとなって行った。
塹壕システムの誕生
それでも横隊散兵と言う形で横隊自体は消えなかった。歩兵には400メートルから300メートルの距離でフォーメーションを維持しつつ、正確で素早い射撃を行う技量と胆力が要求され、この距離を決戦射撃距離と呼び、得意としていたイギリス兵の赤い服にあやかりシン・レッド・ラインとも呼ばれた。
しかし、1914年に口火を切った第一次世界大戦では、決戦射撃距離もろとも数千年続いた歩兵の陣形と言う概念を崩壊させてしまう。
1914年9月、ドイツ軍の戦前からの作戦計画であったシュリーフェン・プランはマルヌ会戦において挫折。独軍・英仏軍(協商国)共に防御にまわりつつ、相手に迂回されないよう塹壕を延伸。結果、二カ月程度で北は英仏海峡、南はスイス国境に至るまでの長大な塹壕線が築かれ、それまで行われてきた方法での迂回突破や包囲殲滅はほぼ不可能となった。
塹壕が築かれ戦線が膠着化することは、既述の通り19世紀から見られる現象である。だが、第一次世界大戦時には歩兵に随伴可能で最前線で火力支援を行うことが出来る速射砲(歩兵砲)と機関銃が普及していた。
たとえば横隊を組んだ歩兵大隊・1000人は突撃発起点から出撃した途端に敵の監視哨(聴音機もこの頃には実用化されていた)や警戒陣地に捉えられ、1000メートルの距離から雨あられのごとく歩兵砲の洗礼を浴びたのち、600メートル付近から小銃弾の弾幕に晒される。300メートルを過ぎれば小銃弾の命中率は射手の恐怖心から下がり出すが、射線を点ではなく線で捉えることが出来る機関銃は人間の恐怖心の有無に関係なく容赦のない十字砲火を浴びせ続ける…結果、時間にしてわずか十分の戦闘にも関わらず大隊は壊滅し、実質的に塹壕を守っていたのは寄せ手の十分の一以下の40人程度の小隊だったと言う事例が頻発した。
いつしか横隊は消え、シン・レッド・ラインは死線と言う言葉に生まれ変わった。交戦国、特にドイツは三重にも渡る塹壕を構築し、状況が許す限り鉄やべトン(コンクリート)で補強を行い、敵砲兵が観測を行えないように山や丘の斜面(敵から見た裏側)に陣地を秘匿した。第一線が突破されれば後方に控えた予備隊が反撃を行い、大損害を受けて補給もままならなくなった敵部隊を撃滅した。
これはもはや塹壕と言うよりは一種のシステム(機械)であり、前線の兵士たちは「ひき肉製造機」「石臼」「炉に薪をくべる」などとこの戦争の在り方を揶揄している。
突破への試行錯誤
塹壕自体はここに完成を見た。そして、第一次世界大戦では膠着した戦況を突破するために様々な戦術が試みられた。
砲撃
まず、素人目にはとても生存している敵兵はいないと思われるほど大量の砲弾を長時間(場合によっては一週間)にわたって塹壕に浴びせた。しかし、塹壕は思いのほか頑丈であり、立てこもられてしまえば思ったような効果は上がらなかった。防御側も当然ながら陣地を出来る限り秘匿しており、後方にまで続く何重もの連絡線やポストを砲撃で潰すことは出来ない。
実際に百発撃って一人死んでくれていれば御の字と言う有様だった(ただし、第一次世界大戦の犠牲者の七割は砲撃によるもので、30人に1人は塹壕で生き埋めになって死んだ。むしろ砲兵の天下だったと言う説もあり)。また、砲撃の開始は攻撃の前兆であるため、奇襲が成り立たなくなる欠点がある。ドイツ軍は後にこの点を改めるのであるが、英仏軍は「敵にあえて脅威を与える」と言う期待をこめて、砲撃含めて攻撃意図をほとんど秘匿しなかった。
毒ガス
次に砲撃の延長であるが、ドイツによる毒ガスの使用がある。これは初期は有効であったが、ガスマスクの普及により塩素を主体とした砲弾は無意味となった。皮膚に直接作用するマスタードガスも後半から使用されたが、敵の塹壕が毒ガスで満たされれば当然に味方の兵士の突破も困難となり、塹壕から塹壕へ、そして敵の後方へと言う機動戦は成り立たなかった。また、当然ながら敵も使用してくるので、結局のところ強襲と同様に均衡してしまう。
装甲化
まるで中世ヨーロッパ的な甲冑を付けた兵士を送り込むことや、蓑虫のような鉄の外套を身に着けた兵士に芋虫のごとく匍匐前進させることも真面目に考えられたが、当然ながら重量増で機動性皆無であり使いモノにならなかった。
ただし、装甲を人ではなく当時勃興著しかった自動車に施せば良いのではないかと言う発想にはつながっている。そこでイギリスで装甲自動車が作られ、これは機関銃の登場で駆逐されつつあった騎兵に新しい存在意義を与えた。ただ、装甲自動車は警備や奇襲、突破後の戦果拡大には使用出来たが、砲弾の炸裂で穴だらけ・泥だらけの悪路になってしまった戦場では信頼できる移動手段ではなく、塹壕相手には力不足だった。
次にイギリスが目をつけたのは、悪路でも行動できるよう履帯をつけたトラクターであった。こちらも既に砲兵部隊で砲弾運搬車として使われており、装甲を施すことで戦車とし塹壕突破の切り札とした。1916年9月15日、世界初の近代戦車MK-Ⅰがソンムにおいて実戦導入されたが、機械的信頼性は皆無であり、敵に多少の混乱を与えただけで停止してしまった。その後は順次改良も進んだが、ドイツ側も対戦車ライフルの導入や野砲による防御戦術を編み出し、単体では決定的な兵器とはならなかった。
浸透戦術
双方攻めあぐねていた西部戦線であったが、意外な答えを出したのは東部戦線でのロシア軍であった。ロシア軍の将軍であったアレクセイ・ブルシーロフはそれまでのフランス式の大量砲撃に疑問を抱いており、少ないが正確な砲撃で敵を混乱させたのちに即座に攻撃を行い、敵の予備隊が駆け付ける隙を与えず敵前線を崩壊させると言う作戦案を提出した。当初は上官の反対にあったが、ロシアが抱えていた砲弾不足もあって、参謀本部は限定的にこれを裁可。1916年6月に実行されると効果はてきめんであり、対峙したオーストリア・ハンガリー帝国に150万、ドイツにも35万もの損害を与えて快勝。一時的に戦局を安定化させた(ブルシーロフ攻勢)。
ロシア側はその後、総力戦体制が軌道に乗り始めたことによって砲弾不足も解消されたため、この戦法自体は重視しなかったが、ドイツ側には大きな衝撃をもって迎えられた。
塹壕の「勝利」
1917年9月、東部戦線のリガにおいてドイツ軍はロシア軍(この頃は既に帝政は倒れ臨時政府)に毒ガスを交えた上で前年のロシア軍のお株を奪ったような攻撃を仕掛けてわずか四日でリガから駆逐した。10月にはイタリア戦線のカポレットにおいて、イタリア軍に同様の短期集中攻撃を加えて突破を図る。突破部隊はそれまでのように戦果の拡大を平面から図るのではなく、後方に浸透し敵の補給線や連絡線を断った(浸透戦術)。イタリア軍は撤退して戦線の維持につとめたが、各所で包囲され混乱を誘発するだけに終わり、最終的に3万の死者と27万の捕虜を出し敗退。イタリアは事実上、戦線から離脱した。
浸透戦術に自信を深め、ロシアの崩壊により東部戦線から兵を引き抜くことが出来るようになったドイツは1918年3月21日、雌雄を決するべく大規模な春季攻勢を仕掛ける(カイザー戦)。
このカイザー戦は当初、大成功をおさめ100kmもの突破に成功。6月3日にはパリまで直線距離で62kmにまで迫った。イギリスは派遣軍の撤退を検討したほどだが、補給線が伸び切り進撃は停滞し部隊には停止が命じられた。26日にはアメリカ軍が到着し、フランス軍も予備隊に加え新型快速戦車ルノーFT-17を投入。ドイツ軍は徐々に圧倒され、7月中に攻撃発起点にまで押し返された。
アミアンの戦車将軍
結局、カイザー戦失敗後、ドイツ軍の士気は大いに低下。英仏米を加えた協商国側が反抗を開始すると、戦争に疲れ切ったドイツ兵たちは次々に降伏。8月、アミアンにおいて戦車・装甲自動車・歩兵・砲兵に急降下爆撃機から履帯を装備した補給車まで加えた英仏軍の大攻勢が開始され、ついに戦線は崩壊。「ドイツ陸軍暗黒の日」とまで表現される大損害を受け、ある将軍は「戦車将軍に敗れた」と叫んだとされる。
それでも、損害自体は協商国側も甚大であり、決定的な勝利はつかめてはいなかったが、避け得ない敗勢に銃後は耐え切れなかった。結局、キール軍港での水兵の反乱を機に革命が発生しドイツ帝国は崩壊へと向かうことになる。
電撃戦へ
塹壕戦での勝者は第一次世界大戦では現れず、むしろ塹壕戦の結果により国家が崩壊して終わったと言う点では塹壕の勝利とすら言えた凄惨さであった。しかし、戦間期を通じて来たるべき次の戦争において、機動戦を再び復活させるための研究を続けていた者たちがいた。彼らはドイツ軍の浸透戦術の有用さと大戦末期の戦車の活躍を評価し、この二つの融合を図った(のちの電撃戦)。
まず声をあげたと言うか、戦前からあげていたのがフランスのエスティエンヌ将軍であった。彼は師団長時代、ソアソンにおいて戦車の攻撃的集中運用を行い攻勢を成功させていた。また、急降下爆撃機の導入にも熱心で、アミアン戦における航空機運用にも関与していた。しかし、出身が理工科大学と言う異端児でもあり、マジノ線に代表される静的防御戦術に固執するフランス軍上層部にその先進性が受け入れられず、軍の主流とはなり得なかった。
カンブレーの戦いでの戦車運用で戦果をあげたイギリスのフラー将軍もこの動きに同調した。しかし、彼も十分過ぎる戦功を持つにも関わらず、実質的な左遷を受け1933年に少将で軍を去った。
彼の弟子であり、軍事理論家の大家となったリデル・ハートは機甲戦略を理論的に発達させたが、強烈過ぎる個性もあってフラーよりも早く軍を追われた。
最終的に遺産を継いだのは敗戦国ドイツの軍人ハインツ・グデーリアンであった。彼も軍上層部の激しい反発に会いながらも徐々に支持者を増やして行き、1933年2月に政権掌握直後のヒトラーに接近。塹壕経験者であり、第一次世界大戦での戦闘方法に限界を感じていたヒトラーは即座に機甲戦に魅了された。
1935年3月、ヒトラーはドイツ再軍備を宣言すると10月には三個装甲師団を編成した。以後、順次拡大が図られ1939年の開戦時点で七個装甲師団と四個軽師団を有した。
開戦直後のポーランド戦で戦車部隊と急降下爆撃機は敵戦線の突破に活躍し、一カ月半でポーランドを下した。近年では戦車は分散配置されていたことや、ポーランドの早期敗退はソ連の参戦が大きかったとされ電撃戦とは認められていないが、ヒトラー本人は「これで世界の軍事用語辞典に電撃戦と言う新語が付け加えられるだろう」と豪語している。
1940年5月10日、ドイツ軍装甲師団がベルギー領アルデンヌに殺到。かつての浸透戦術でも三か月を要した100kmの縦深をわずか10日で踏破し、ドーバー海峡に達した。6月14日にはパリが陥落し、22日フランスは降伏。塹壕含めて、少なくとも静的防御のみに頼る戦術は過去のものとなった。
その後
塹壕そのものは電撃戦確立後も消滅せず、戦車に対しては対戦車砲と組み合わせたパックフロントと言う形に昇華され、独ソ戦ではドイツ軍の侵攻を度々挫いた。また、戦車による動的攻勢が不可能な地形が目立つイタリアでは塹壕と山岳帯を利用した防衛線が敷かれ、機械化された連合軍の進撃を終戦まで防いでいる。
戦後も朝鮮戦争では後半から長期の塹壕戦に移行し、面積当たりでの砲弾の着弾量では第一次世界大戦を凌駕した戦闘地域も出た。戦術核に対する有用性も確認され、対核戦術の重要な一角を占めた。
ベトナム戦争も同様で、特にケサンの戦いにおけるアメリカ軍が築いた警戒壕での戦いはベトナム戦争でも特筆すべき近接戦闘(CQB)として記録されている。
しかし、後半からは燃料気化爆弾によって塹壕ごと籠る兵を圧殺する戦法が多用され、とりあえず塹壕さえ掘れば生き残れると言う考えには疑問符が投げかけられるようになる。湾岸戦争では多国籍軍はイラク軍の塹壕の前に苦戦するのではないかと言う戦前予測もあったが、実際は激しい空爆と燃料気化爆弾の前に圧殺され、生き残りも戦意を喪失し白旗をあげた。装甲ブルドーザーも活躍し、順次敵兵ごと塹壕を埋め立てて行き、第一次世界大戦の再現はならなかった。
ただし、装備が均衡している武装勢力同士の争いや小規模戦闘では依然、周到に用意された塹壕は脅威であることに変わりはない。
構造
南北戦争の頃までは浅く掘り前面に盛り土をすることが多かったが、砲撃には脆弱であるため第一次世界大戦以降は深く掘り、土嚢(土を入れた袋)を多用することが多くなる。通常は排水対策と手りゅう弾対策のために前面側に傾斜をつけて溝を掘っておく。
戦争映画の影響で泥のイメージが強く、実際に協商国側は湿地帯に塹壕を築いたためドイツ軍との戦い以前に、泥との戦いであったと言う証言は多い。一方のドイツ軍はべトンでの補強を積極的に行い、実態としては永久築城に近かった。
もう一つのイメージとして、塹壕に籠る側が横一線になって小銃を構える姿だが、攻撃側が横隊を組まなくなると第一線の塹壕は連絡壕としての役割が強くなり、敵の攻撃が始まると敵に効率的に十字砲火を浴びせられる機関銃ポストや攻撃位置について待ち構えることが多くなった。
実際のところ、塹壕にも毎日籠ると言うことはなく、特に第一線の警戒壕はローテーションで回されていたことが多い。通常は三線まで用意されており、さらに後方には予備隊が控えていた。
執拗な誤解として、初期から塹壕を全く突破出来なかったと言うイメージがあるが、警戒壕までたどり着くのはそれほど難しい訳ではなく、多大な犠牲を払いつつ第三線までたどり着いた例も少なくない。しかし、人力に頼る当時の補給では一日で弾薬や糧食が尽きてしまうことが多く、後方の予備隊が回復攻撃を行い攻撃部隊を迅速に粉砕し開いた戦線の穴埋めを行った。浸透戦術も電撃戦も塹壕そのものよりは、後方の予備隊にどう対処するのかの答えだったのである。
掘るための道具としては古来よりシャベルが使われ、近接戦闘でも有効であることから歩兵部隊では現在でも必須装備である。自衛隊では掩体掘削機として油圧ショベルが装備されている。
塹壕が生んだもの
- 航空戦
戦車や毒ガスなどの近代兵器は前述の通りだが、航空機も敵の塹壕への偵察や砲兵観測に用いられていた。この活動を妨害するために、航空機同士が石を投げつけたりピストルを撃ったりしたことが、現在では戦争の勝敗どころか国家の存亡までをも左右する航空戦につながる。 - 迫撃砲
野砲は射程に優れるが、塹壕相手の曲射は苦手であり速射砲も開発されたものの歩兵支援には十分とは言えなかった。そこで曲射が容易に可能で速射性にも優れた迫撃砲が多用された。現代戦でも迫撃砲は歩兵にとって最大の脅威となっている。 - 短機関銃(サブマシンガン)
決戦射撃距離時代は小銃の射程の長さは重要な性能であったが、塹壕突入後の接近戦では持て余し気味であった。そこで短射程でも大量の拳銃弾を発射できる短機関銃が重宝され、各国で実戦配備された。 - 手りゅう弾
歩兵が携行出来る爆弾は古来より存在したが、塹壕と言う穴を奪う戦いでは籠る敵兵を掃討する際に威力を発揮した。浸透戦術に用いられた突撃部隊と言うと、ガスマスク、ヘルメット、短機関銃、手りゅう弾を装備した兵の姿がステレオタイプである。 - トレンチ・コート
イギリス製の毛皮の外套。戦前から開発されていたが、塹壕で防水・防寒に効果を発揮したことから戦後爆発的に普及が始まった。いわゆるハード・ボーイルドやハンフリー・ボガートが広めたボギースタイルのマストアイテムだが、ショルダーストラップや腰回りの鐶に軍服としての名残がある。 - ヘルメット
身体は塹壕で防御出来るものの、頭部は無防備であり砲弾の破片で受傷する者が多かった。そこで、各国はそれまでの伝統的な軍帽を改めて鉄帽(ヘルメット)を採用した。
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関連項目
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- 0pt