地域の歴史秘話を求めて~日本全国探訪記~
旅と歴史が好きで、コロナ前は、休日は日本各地の史跡を巡り、地域に眠る歴史秘話を探求しておりました。現在は家庭を持ったため、マイペースに首都圏の史跡を巡っています。当ブログでは、現地で学んだ地域の歴史をまとめております。「地域の歴史を知ることは、地域の魅力を知ること」(※カテゴリの凡例について ★:一旦探訪完了 ▽:探訪中 無:未探訪)
32207-5 島根県江津市
島根県江津市
1:江津
■2018年8月27日(月)
【歴史】
江津本町駅があった場所の近くにある江津本町は、江戸時代は湊町として栄えた。
江の川は流れが緩やかな河川だったため、14世紀から水運が発達していた。
江戸時代になると、江戸幕府は江の川河口の西岸の一部分(鶴山と亀山で挟まれた谷)のみ天領とした。
そこは江の川の湊であると同時に、山陰道が通る交通の要衝だった。
江津本町から西に数キロ外れに山陰道の石畳が現存する土床坂がある。
土床坂の近くには、「是れ従り西浜田領」と書かれた領界標柱が現存する。
その天領には町(江津本町)が形成され、江戸時代中期から北前船の寄航地になると、廻船問屋が最盛期で60軒も立ち並ぶほどに発達した。
町の繁栄を示すものとして、山辺神社に町の豪商たちが寄進した狛犬、鳥居、常夜灯が現存する。
江津本町には当時の町並みの面影が残っている。
町並みには、牛馬や水路を行き交う小船をつなぎ止めた鼻ぐり石が現存する。
江戸時代の江津には、三田と呼ばれる、苗字に田が付く3軒の豪商がいた。
藤田家は、江津の商家の特徴を多く有する。
石州瓦、屋根の上の煙出し、貴賓客を通す正門と普段の生活で出入りする副門を有している。
横田家は、江戸時代に江津で一番栄えていた。
しかし、大金を貸していた浜田藩松井松平家に転封で貸し金を踏み倒されるなど不幸が相次ぎ、一気に衰退した。
山辺神社には、参拝者が心身を清めるために横田家が寄進した鏡池がある。
飯田家は明治時代にも繁栄を維持し、町長も務めた。
奥には江戸時代の豪邸の屋根瓦が見え、出入口には少し婉曲した御影石の橋が架けられている。
飯田家は亀山に別邸「二楽閣」を築いていたが、現在は大部分は自然崩壊してしまっている。
また、飯田家は明治時代には江津本町の郵便局の局長を務めていた。
神戸の居留地の洋館を参考に建てた擬洋風の郵便局の建物が現存する。
幕末の第二次長州征伐において、長州藩は代官所のある大森へ進軍するに当たり、江津を通過し、江津に陣屋を構え、数年間駐留した。
陣屋の跡地には、駐留中に植えたという桜の木がわずかに残っている。
長州軍が駐留中に一時的に炊事場として使用していた円覚寺には、向拝部に鏝絵がある。
江津本町は明治時代以降も町の中心で、1926年建築のアールデコの建物を町役場としていた。
しかし、江戸時代の水運の主流だったたたら製鉄の衰退から始まり、鉄道(山陰線)の開通、道路の発達、そして1962年の市庁舎移転により、江津本町は衰退していき、現在は古い町並みによる町おこしを実施している。
1:江津
■2018年8月27日(月)
【歴史】
江津本町駅があった場所の近くにある江津本町は、江戸時代は湊町として栄えた。
江の川は流れが緩やかな河川だったため、14世紀から水運が発達していた。
江戸時代になると、江戸幕府は江の川河口の西岸の一部分(鶴山と亀山で挟まれた谷)のみ天領とした。
そこは江の川の湊であると同時に、山陰道が通る交通の要衝だった。
江津本町から西に数キロ外れに山陰道の石畳が現存する土床坂がある。
土床坂の近くには、「是れ従り西浜田領」と書かれた領界標柱が現存する。
その天領には町(江津本町)が形成され、江戸時代中期から北前船の寄航地になると、廻船問屋が最盛期で60軒も立ち並ぶほどに発達した。
町の繁栄を示すものとして、山辺神社に町の豪商たちが寄進した狛犬、鳥居、常夜灯が現存する。
江津本町には当時の町並みの面影が残っている。
町並みには、牛馬や水路を行き交う小船をつなぎ止めた鼻ぐり石が現存する。
江戸時代の江津には、三田と呼ばれる、苗字に田が付く3軒の豪商がいた。
藤田家は、江津の商家の特徴を多く有する。
石州瓦、屋根の上の煙出し、貴賓客を通す正門と普段の生活で出入りする副門を有している。
横田家は、江戸時代に江津で一番栄えていた。
しかし、大金を貸していた浜田藩松井松平家に転封で貸し金を踏み倒されるなど不幸が相次ぎ、一気に衰退した。
山辺神社には、参拝者が心身を清めるために横田家が寄進した鏡池がある。
飯田家は明治時代にも繁栄を維持し、町長も務めた。
奥には江戸時代の豪邸の屋根瓦が見え、出入口には少し婉曲した御影石の橋が架けられている。
飯田家は亀山に別邸「二楽閣」を築いていたが、現在は大部分は自然崩壊してしまっている。
また、飯田家は明治時代には江津本町の郵便局の局長を務めていた。
神戸の居留地の洋館を参考に建てた擬洋風の郵便局の建物が現存する。
幕末の第二次長州征伐において、長州藩は代官所のある大森へ進軍するに当たり、江津を通過し、江津に陣屋を構え、数年間駐留した。
陣屋の跡地には、駐留中に植えたという桜の木がわずかに残っている。
長州軍が駐留中に一時的に炊事場として使用していた円覚寺には、向拝部に鏝絵がある。
江津本町は明治時代以降も町の中心で、1926年建築のアールデコの建物を町役場としていた。
しかし、江戸時代の水運の主流だったたたら製鉄の衰退から始まり、鉄道(山陰線)の開通、道路の発達、そして1962年の市庁舎移転により、江津本町は衰退していき、現在は古い町並みによる町おこしを実施している。
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